先輩のこと
「どうぞ」
コトリと片方の湯飲みを座卓に置くと、どうもと返ってくる。視線は雑誌に注がれたまま。さて、とノートを前に胡坐をかき、手にした湯飲みに息を吹きかける。ざわざわとさざめき立った心を落ち着かせるためにゆっくりと一口啜る。
「ねえ、私、あんたのこと好きだよ」
突然の言葉に固まりかけて、視線を発言者に向ける。けれど長い髪が邪魔をして先輩がどんな表情をしているのかは見えない。一体どういうつもりでの発言なのか。口に含んだままだったお茶をごくりと飲み込む。
「まあ。突然の告白にどきどきしちゃいますね」
本音を交えつついつもの調子で返してみる。先輩、それはどういう意味ですか?
「気の無い返しだなあ」
少し笑ってこちらを見た先輩の顔はかすかに赤みを帯びているような気がしたけれど、それは部屋中を真っ赤に色づけている夕日のせいなのかも知れなかった。「好き」にこめられた意味。それはきっと私の望むものではない。それなのにこんなにも動揺するのはこの赤い世界のせいに違いない。
「あれ? 先輩、顔赤いんじゃないですか?」
それは私の願望。茶化すようにそう言うと、少し赤みが増した気がした。
「ん? 気のせいじゃない?」
そう言うとまた顔を伏せ、髪がはらりとその表情を隠す。平静を保った声色に私はもう少しからかいたい衝動に駆られる。コトリと湯飲みを置く。
「そうですかね。ちょっとこっち向いてくださいよ」
伸ばした手を頬に添えてこちらを向かせるとあからさまに赤く染まっていた。どくりと脈打ち、期待が膨らむ。
「ほら、やっぱり赤いですよ」
「気のせいだって」
それでも「気のせい」と言い張る彼女の瞳は、もう、目を回すんじゃないかと思うほどにゆらゆらと動き回っていた。そんな先輩を見るのは初めてで、それはとても可愛らしくて、私はもう自分の衝動を押さえられそうになかった。
「じゃあ、もうちょっと近づいて確かめましょうか」
それでも冗談めかすのは保身だ。いつでも先輩が避けられるように、私はゆっくりと顔を近づけていく。動き回るのをやめた瞳を見据えて。そこに嫌悪の色がこもった瞬間になんつってとふざけて見せるために。
「え」
先輩はそう小さく声を漏らしたけれど、目を逸らされることも、手を退かされることも、体を離されることもない。ゆっくり、ゆっくり。近づく唇に息が詰まる。先輩、良いんですか? 鼻が触れ合い、目が閉じられていく。ゆっくり、ゆっくり。触れて、重なる。手のひらで触れた頬も、私のそれで触れた唇もとても熱かった。
数秒の接触。もうこれ以上は心臓が持たないというところで近づいたときと同じくらいゆっくりと離れる。そっと目を開くと、鼻が触れる距離で見る先輩は頬どころか耳や首まで赤く染まっていた。そのあまりの赤さに笑みが漏れる。
「ほら、やっぱり赤いですよ」
私だって赤いかも知れないとも思ったけれど、真っ赤な先輩をからかわずにいられなかった。
「うるさいよ」
ようやく認めさせられて満足する。真っ赤な顔で口を尖らせる先輩が可笑しくて、可愛くて、ふふと笑ってしまう。
「先輩、私も先輩のこと好きですよ」
正直に気持ちを口にすると、頬に添えていた手を退けさせられ、先輩はまた雑誌に目を落とす。髪がはらりと表情を隠してしまう。
「本当にあんたの言葉は毎度嘘臭いよね」
もう一度手を伸ばし、指でゆるく波打つ髪を退けると目に涙が滲んでいた。
からかっていると思われているのだろうか。いくらなんでもそんなことのためにキスなんてしませんよ。どうしたら信じてもらえますか。私はずっとずっとそう思っているんですよ。ねえ、泣かないでくださいよ。
「嘘なんかじゃないですよ」
言いながらこぼれそうになった涙を指ですくった。先輩は何も言い返さなかったけれど、私は繰り返す。
「嘘なんかじゃないです」
暇なときに訪れる場所に選んでもらえればいい。軽口を叩き合える間柄でいられればいい。それだけで私は十分なんです。
でも、もう少しだけ望んでもいいですか。
「先輩が好きです」