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俺、へちま事件

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 と、いう事件が十年前にあった。これぞ俺のマイ歴史の中でもかなり異彩を放つ、「俺、へちま事件」である。それからもゆうこは俺をへちまと信じ続け、毎日俺の住む川へ遊びに来た。毎日俺の皿を好意でベトベトにした。変なガキだった。こいつの将来がうっすら心配になった。

 しかしある日突然ゆうこは来なくなったのだ。理由はよくわからない。母親がサイコンだと人間たちが話しているのを川の中で聞いたが河童の俺にゃあさっぱりだ。皿がべとべとにならなくなって助かったが、そしたらなんだかやたら皿がスースーしやがってどうにもおもしろくなかった。

 そしてそれから十年が過ぎた夏の日の今日、ゆうこはまたこの田舎に帰ってきたのである。しかし人間の成長は俺ら河童と比べりゃとんでもなく早い。たった十年だってぇのに、ゆうこはすっかり大きくなってあの頃とは変わっちまっていた。
 ゆうこはすっかりめんこいお嬢さんになって、松葉杖をつき、片腕も包帯で吊っている。人間たちがサイコンのギャクタイでなんとか言っていた。河童にゃ一体なんのことやらさっぱりだ。

 ゆうこは十年前に毎日通った場所で一人腰を下ろし、ずっと川面を眺めていた。時々魚が跳ねる音にハッとしてそちらを見やり、落胆の吐息をする。俺を待っているんだってことはもちろんわかっていた。毎日日が暮れるまでそうして過ごしていた。

 しかし俺ぁゆうこの前に出るわけにゃいかんのだ。何せあれから十年の時が過ぎちまっている。俺は何十年たとうと河童のまんまだが、人間は十年あれば馬鹿なガキもそこそこの大人にゃあなる。もう俺をへちまだとは思っちゃくれないだろう。もしも万が一にも俺を未だ植物だと信じているなら、それはそれでとても一大事である。ゆうこの頭が。さすがにそれはないだろうと、ゆうこのためにも信じたい。

 俺ぁお前の前にゃ現れてやらんぞゆうこ。だから早く帰るといい。近頃ぁ夏のせいか夕暮れになるとタチ悪い人間も時々うろついているんだ。その足じゃ逃げきれんだろう。さあ早く帰れゆうこ。お前がガキの頃に会った緑色はただの夢の出来事だ。実在する化け物なんぞじゃなかったんだよ。もう、それでいいだろう?

 川の中から俺ぁずっとぶくぶくと囁いていた。けれどゆうこはいつまで経っても帰ろうとしなかった。ガキの頃は夕方の鐘が鳴ったらすぐに帰ったってぇのに、鐘が鳴り終わってもまだ帰ろうとしやがらねえ。
 そして空が夕焼け色から黄昏色に変わり始めた頃、別の人間がやってきた。

「優子、あんたこんなところにいたの。何をしているのみっともない」

 人間がそう言ってもゆうこは俯いたままだった。

「早く帰るのよ。そんな姿で出歩いて恥ずかしくないの? ご近所に噂になるからやめてちょうだい」

 そのあとも人間がぶつくさ文句を浴びせたが、それでもゆうこは動かなかった。膝を抱えて蹲り、やがて一言だけ、か細い声で嫌だと鳴いた。

 その瞬間、魚が跳ねるかのような音がした。ゆうこの体が横に倒れる。人間がゆうこをぶったのだ。

「何よあんた! なんとか言いなさいよ! わたしを馬鹿にしているの? あなたがそんなだからあの人も手をあげたんでしょうよ!」

 人間はまた、倒れたゆうこに向かって右手を振り上げた。痛いだろうに、ゆうこは少しも抵抗しない。人間はまるで火がついちまったようにやかましくて、いつまで経っても終わりゃあしない。そのうちに、俺ぁもう我慢できなくなっちまった。ざばりと大きな音を立てて川の外へ出る。

「おい、やめねえか」

 夕暮れとはいえ水の外はじんわり暑い。皿から水が一気に蒸発した気がする。それとも俺が頭にきているからってだけだろうか。
 人間は突然あらぬ場所から声をかけられたことで弾かれたように振り返り、そして硬直した。昔ながらの正しい反応だ。次には顔が真っ白になり、悲鳴を上げる。人間らよ、そんなに緑色のオッサンは気味が悪いか。昔から思っていたのだが少々失礼じゃないか。差別はいかん。差別は。

「ば、化け物……!」
「おっと、惜しいな。いい線いっているがね」

 少なくともへちまよりはずっと近いね。ただしへちまより十倍は気分悪いが。

「お前さん、目障りだよ。しりこだま抜かれたくなけりゃあ、とっとと消えちまいな。俺の川でこいつに暴力振るうのぁ許さねえ」

 人間は、俺がひと睨みすると大きな魚に追いかけられる小魚のようにあっという間に泡食って逃げ出した。ゆうこはもちろん置き去りだ。てっきり母親かと思っていたが、ガキ置いて逃げるってこたぁどうやら違っていたようだ。まあ母親ならてめぇのガキに暴力は振るわんしな。河童の常識だ。

 ふうやれやれと一息吐いて、俺ぁそれから途方に暮れた。なぜならゆうこが大きな目ん玉まあるくして俺を見上げていたから。そうだよ、隠れているって決めたんじゃないか。なんだって俺ぁこいつの前に現れちまったかね。

「おじさん……だよね。そうでしょ?」

 違う、と言ったところで信じてもらえるとは思わなかった。こんなイカした緑色は俺以外にゃそういねぇ。
 あーあ、これでお仕舞だよ。がっかりだ。ゆうこにだけは正体を知られたくなかったのにな。もうこれで俺ぁガキの不可解な思い出から実在する化け物へ昇格しちまった。とてもとても、がっかりだ。

「……そうだよ、久しぶりだな」

 ふて腐れて俺が言うと、ゆうこは川べりに咲く小さな花のように笑った。ガキの頃とおんなじ顔で。

「やっぱり夢じゃなかったんだね」

 ああ、懐かしいな。お前さん、あの頃とちっとも変わっとらんじゃないか。俺の緑色とおんなじで、お前さんの笑顔もあの時のまんまだ。ちっとばかしべっぴんさんに化けたようだが。

「あのね、おじさん。わたし、おじさんにずっとずっと聞きたかったことがあるの」
「ああ、そうかい。言ってみな」

 そしたらこれで本当のお別れだ。俺ぁもう腹ぁ括ることにした。あのやかましい人間にも見られちまったし、そろそろ潮時なんだろう。よその川へ旅に出るとしようじゃないか。

 だから最後に、お前さんに本当の、俺の正体を教えてやろうじゃないか。

「あのね、おじさんの名前教えて!」
「ああ、そうだよ。俺ぁ本当は緑のおじさんなんかじゃなくて…………え、名前?」
「そう。名前! だってずっと聞いてなかったよ!」

 いやいやいや、違うだろう。ゆうこよ、そこはそれを聞くところじゃないだろう。名前よりももっとずっと大事なことがありやしないか?

 しかし俺ぁなんだか懐かしくなっちまった。昔もこいつぁこうして俺のことをたまげさせたんだ。甘ったるいジュースで皿をべとべとにさせて、満面の笑顔で。

 それにしても一体なんと答えようか。何せ河童にゃ名前なんぞありゃしねえ。そもそも群れないし数も少ないからな。どこそこの川の河童で大概通じちまう。

 ああでも待てよ。一つだけ、ちょうどいいのがあったじゃないか。俺の名前なんざ、あれ一つっきゃねえ。

「なあに言っていやがる、ゆうこ。お前さん、昔に言ってくれたじゃないか。忘れちまったのかよ」
「え?」

 ゆうこはことん、と首を傾げる。俺はその頭をぽんとひと撫でして、言ってやった。

作品名:俺、へちま事件 作家名:烏水まほ