俺、へちま事件
俺ぁ夏が嫌いだ。
なぜって頭の皿が乾く。河童にとってこれほど過ごし辛い季節はない。
とはいえ我が最愛の恋人、生涯の伴侶であるキュウリは川の外へ行かんと手に入らんので、暑いからってずっと水の中にいるわけにゃあいかない。たとえ夏の悪意のような太陽だろうと俺らのキュウリへの愛は断ち切れんのだ。
そしてあれはクソ暑いある夏の午後のことだった。キュウリへの曲げられない愛を貫いた末、俺ぁ皿が乾いて行き倒れちまった。
こうなりゃもう人間に見つかって不老不死の材料にされちまうか、科学の進歩の材料にされちまうかしか道はない。何せ人間てぇ生き物はよくわからんが、やたら俺らを何かの材料にしたがる習性がある。次に生まれ変わるならできればキュウリの花がいいと朦朧とする中で俺ぁ死を覚悟した。
そしてどれだけの時が経っただろう。違和感に目を覚ますとそこは台所でも研究所でもなく、ただの田舎の道端だった。つまりはさっきいた場所だ。
なぜだか口の中がやたら甘ったるかった。ついでに顔と頭の皿ががべたべたすらぁ。何事かとびっくりして起き上がると、すぐ隣に人間のガキがしゃがんでいやがった。まだハナタレの、ちんまいガキだ。
「オレンジジュースだよ」
ガキは肩からかけた金魚模様の水筒を掲げて無邪気に笑いかけた。どうやらこいつは俺にジュースを飲ませようとして顔面をジュース塗れにしてくれたらしい。しかしおかげで皿まで濡れて俺ぁ意識を取り戻したってわけだ。自分がジュースもいける口だとは知らなかった。己の新しい側面を発見する。ぶっちゃけどうでもいい。
「おじさん緑色だよ。大丈夫? ジュースもっといる?」
「俺ぁ元から緑色なんだよ。体調に関係なくな。ジュースはもういらねぇ」
「ふーん。へんなの」
ガキは全く俺を怖がる素振りを見せなかった。もしかしたら俺というイキモノをよく理解できていないのかもしれない。しかしいつ気がつくかわからないし、それ以上にもしかしたらこいつの親や他の常識ある人間が通りかかるかもしれない。そう考えると俺ぁ気が気じゃなかった。むしろ今すぐ発狂して叫び出したいくらいだ。万が一見つかれば俺ぁ極悪なる連続キュウリ窃盗犯としてなんかの材料にされちまう。そうなる前になんとしてでも川に戻らにゃいかん。
そうだ逃げるんだ。ガキなんざどうでもいい。とにかくここは走って逃げよう。川に飛びこんじまえばこっちのもんだ。俺さえいなけりゃガキの言葉なんぞ大人どもは誰も信じまい。
「ねえ、おじさんってへちま?」
そうと決まれば即実行だ。猛烈な勢いで起き上がりかけた俺にガキはことんと首を傾げてのんびり尋ねた。しまった、もうばれちまったか。あばばばば。
「ち、違ぇよ俺ぁ河童なんかじゃなくてキュウリ食い過ぎて全身キュウリ色になっちまった可哀相なオッサン……って、え? へちま? え……?」
逃げることも忘れて己の緑色の耳を疑った。
「あのねえ、ゆうこねえ、学校でへちま育ててるんだよ」
空耳じゃなかったらしい。
「というかあの……へちま? へちまなのか……?」
ゆうことやら、お前さん頭は大丈夫か。お前さんは寺子屋で一体何を学んでいるんだ。河童だよ。お前さんの目の前にいるのは連続キュウリ窃盗犯の伝統ある妖怪、河童様なのだよ。
「ゆうこのへちまもおっきくなったらおじさんみたいになるかなあ」
「……うん、なったら気味が悪いな」
ある意味存在を全否定された俺ぁ、もう逃げることも忘れてそう呟いた。夕焼け空が目に染みて目からジュースが垂れた。