聖母
聖母
1
「僕は罪深い人間です」
少年は言った。
「――まあ。ねえ、あなた。どうしてそんな風に思うのです」
彼と向かい合ったその人は、美しい声で言った。
少年は深くうつむく。肩を落とし、美しい人のほうを見ようともしない。
「あなたはまだお若いわ。あなたのようにお若い方はときどき、泉のように清らかで、若木のように真っ直ぐな心から、自分のことも身の回りのことも、うんと深く思いつめてしまうことがあるでしょう。それはとても大切な心です。けれど、その清らかさのために、ご自分を傷つけるような考え方をしてはいけませんわ」
少年は答えない。
美しい人は、それでもやわらかい表情のまま、少年に言った。
「わたくしはこれまで、数え切れないくらいの、それは沢山の罪深さをゆるしてきました。盗みやかんいん姦淫やたいだ怠惰、どれもこれも、驚くような、目を見張るほど色鮮やかな罪ばかり。……ねえ、あなた。どうかわたくしに、あなたの罪深さのゆえん所以を教えてくださいな、そうしたらきっと、わたくし、あなたのこともゆるして差し上げられるに違いありませんわ」
そう言って、眩いばかりに美しいその人は、無垢で透きとおっているがゆえに不透明な、百合の花のような微笑を浮かべた。
少年は、軽くみじろぐように頭を振った。
「……こうしていま、生きていることを恨むほど、僕は罪深い人間です」
少年は重ねて言った。
まだおさない顔をうつむけて、膝のあたりの服を両手でぎゅっと握り締めながら、眉をきつく寄せ酷く怖い顔で言った。
「そんなことはありません。ね、あなた。ご自分の命を、そんな風に言うものじゃありませんわ。せっかくこの世に一つきりの、大事なものですもの。それこそはいっとう妙なる奇跡であり、いまだどんなちえ智慧たちも解き明かすことの叶わぬ、尊い謎です。わたくしたちは、いまだこの身に宿る何がしかの存在の名を、明かせぬままなのですよ」
美しい人の頭上には、いまや雪のような輝きの冠がかかり、その眸はこの上もなく澄明な海の青に光っていた。調和の取れた頬はばら色、均一に滑らかな髪は黄金の波のように肩口に垂れている。
「だって」
少年は言った。
「僕の心はとても醜い……いま、ここで胸を開いて心を見せれば、貴女はきっと、あまりのおぞましさに目を背けることでしょう」
少年の言葉に、美しい人は夢見るような声で答えた。
「そんなことはございませんわ。ええ、けっしてね」
美しい人は微笑む。
「なぜかと言って、わたくしは愛するということを知っているから」
美しい人の言葉に、少年はうさん胡散臭げな視線を送る。とても信じられないという顔で。美しい人は、それにまったく構わない様子で、
「人は、もっと自身を愛するべきです、それは正しい、唯一の方法で。――それが出来てはじめて、わたくしたちは隣人を愛することも出来るのです。なにもわたくしは、いたずらに自分の境遇をかわいがって、一歩も進まないことに甘んじることを善しというのではありません。自分の姿をありのままに認め、相手の姿をありのままに認めること、そしてその姿こそが、非常に価値のある、素晴らしいものなのだと気づくこと。それが愛するということです。――愛とは尊いものですわ。最後の最後で、愛は人の罪をぜんぶ帳消しにしてしまいますもの」
「……あなたが、人をゆるすとき、それは相手を愛するということなのですか」
少年が、とても小さな声で言った。
「たとえば、僕があなたに、ここで僕の罪深さの所以をつまびらかにしたとして、あなたは、愛をもってそれをゆるしてくださるのですか」
先ほどよりは、いくらか大きい声だった。
少年の言葉を聞いて、美しい人はとても嬉しそうな顔をした。天頂の青を孕んだ双眸はきらめくほどに輝き、その唇はどんな花もかなわぬほどあでやかに微笑んでいた。美しい人は、白鳥のようにたおやかな首を、上品にかしげる。
「ええ、ええ。もちろんですわ、――愛しいひと。わたくしは、いまこのひと時にも、すべての人々を愛しているのです。わたくしは人の罪深さを知っています。けれど、その罪でさえ、なんと悲しい感情に彩られていることか。とても責め立てる気になどなれません。命を殺めたものは、その殺めたるところによって傷を負い、誰かの富を盗んだものは、その盗むところによって、達成されぬ精神の飢えという傷を負う。……そうやって、己の手で何かを欠けさせてしまったものたちは、常に救いとゆるしを求めています。それはわたくしにとって、あまりに切なる願いであり、幼子のようにいとけない、かわいらしい望みです。わたくしは、むしろ、罪を抱かざるをえなかった、その人々の侘びしさを哀れに思います。その哀れを、何とかして差し上げたいと思うのです」
いまや、辺りには光が洪水のように湧き起こっていた。その無垢な輝きは、少年と美しい人をひとしく取り囲み、彼らの間に横たわる空間の溝を、なかったこととして埋めていた。少年はそのことに怯えていた。
「それでは、傷つけられた人はどうするのですか」
すがりつくような声で少年は言った。
「理不尽な暴力をこうむった方の、つまり被害者は? だってあなた、そうでしょう。大なり小なり、自分の心根の弱さに負けて、他者を害するような人間なんて。――とてもゆるせたものじゃない。そんな奴は、いっそこの世から消えてしまえばいい」
美しい人はかすかに頭を揺らした。淡い燐光がちらちらと瞬く。美しい人は、繊細な指先を少年に向けて差し伸べる。
どこまでも真っ直ぐに、いっさいの混じりけもなしに、心ごとその手を伸べる。
そして言った。この世のものとも思えぬ声で。少年の心根にとどめの一刺しを入れるように。
「裁くことの、その、何とたやすいことでしょう。人は人を裁く。それはたしかに必要なことです。それならば。わたくしがゆるしを与えましょう、ゆるすことの出来ぬ人の代わりに」
かち。と少年の歯が鳴った。
「なればこそ、このわたくしが。知らず知らず、傷つけられたものたちの苦しみと、同じだけの傷を負いながら、裁きのなかに見失われる、罪びとの哀れをゆるしましょう」
少年はなおもうつむいたまま。固く力をこめた拳がぶるぶると震える。美しい人は、そんな彼をじっと見つめて、身じろぎもしない。ただ一心に、それゆえに切り付けるような鋭さと呵責なさを持った眼差しで、美しい人は少年のかたくなな表情に心を寄せる。
力いっぱいに、渾身の清らかさに手を差し伸べたまま。
「――これでも!」
やがて、弾けるような言葉が一声。
少年の身体がめまぐるしく挙動した。獣のごとき素早さ・無粋さ・気高さ、勝ち誇るような熱狂の表情で少年は美しい人を見る、その開かれた両目の、透きとおった無垢をひたとねめつけながら跳躍する。その手にしたものを、悪を裁くつるぎのように天井高く掲げながら。美しい人の頬がふるえ、唇がわずかに開いた。
甲高い破壊音。打撃の濁音。悲鳴はなかった。ただ、痛ましいまでの静寂と沈黙がその場を一挙に支配した。
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「僕は罪深い人間です」
少年は言った。
「――まあ。ねえ、あなた。どうしてそんな風に思うのです」
彼と向かい合ったその人は、美しい声で言った。
少年は深くうつむく。肩を落とし、美しい人のほうを見ようともしない。
「あなたはまだお若いわ。あなたのようにお若い方はときどき、泉のように清らかで、若木のように真っ直ぐな心から、自分のことも身の回りのことも、うんと深く思いつめてしまうことがあるでしょう。それはとても大切な心です。けれど、その清らかさのために、ご自分を傷つけるような考え方をしてはいけませんわ」
少年は答えない。
美しい人は、それでもやわらかい表情のまま、少年に言った。
「わたくしはこれまで、数え切れないくらいの、それは沢山の罪深さをゆるしてきました。盗みやかんいん姦淫やたいだ怠惰、どれもこれも、驚くような、目を見張るほど色鮮やかな罪ばかり。……ねえ、あなた。どうかわたくしに、あなたの罪深さのゆえん所以を教えてくださいな、そうしたらきっと、わたくし、あなたのこともゆるして差し上げられるに違いありませんわ」
そう言って、眩いばかりに美しいその人は、無垢で透きとおっているがゆえに不透明な、百合の花のような微笑を浮かべた。
少年は、軽くみじろぐように頭を振った。
「……こうしていま、生きていることを恨むほど、僕は罪深い人間です」
少年は重ねて言った。
まだおさない顔をうつむけて、膝のあたりの服を両手でぎゅっと握り締めながら、眉をきつく寄せ酷く怖い顔で言った。
「そんなことはありません。ね、あなた。ご自分の命を、そんな風に言うものじゃありませんわ。せっかくこの世に一つきりの、大事なものですもの。それこそはいっとう妙なる奇跡であり、いまだどんなちえ智慧たちも解き明かすことの叶わぬ、尊い謎です。わたくしたちは、いまだこの身に宿る何がしかの存在の名を、明かせぬままなのですよ」
美しい人の頭上には、いまや雪のような輝きの冠がかかり、その眸はこの上もなく澄明な海の青に光っていた。調和の取れた頬はばら色、均一に滑らかな髪は黄金の波のように肩口に垂れている。
「だって」
少年は言った。
「僕の心はとても醜い……いま、ここで胸を開いて心を見せれば、貴女はきっと、あまりのおぞましさに目を背けることでしょう」
少年の言葉に、美しい人は夢見るような声で答えた。
「そんなことはございませんわ。ええ、けっしてね」
美しい人は微笑む。
「なぜかと言って、わたくしは愛するということを知っているから」
美しい人の言葉に、少年はうさん胡散臭げな視線を送る。とても信じられないという顔で。美しい人は、それにまったく構わない様子で、
「人は、もっと自身を愛するべきです、それは正しい、唯一の方法で。――それが出来てはじめて、わたくしたちは隣人を愛することも出来るのです。なにもわたくしは、いたずらに自分の境遇をかわいがって、一歩も進まないことに甘んじることを善しというのではありません。自分の姿をありのままに認め、相手の姿をありのままに認めること、そしてその姿こそが、非常に価値のある、素晴らしいものなのだと気づくこと。それが愛するということです。――愛とは尊いものですわ。最後の最後で、愛は人の罪をぜんぶ帳消しにしてしまいますもの」
「……あなたが、人をゆるすとき、それは相手を愛するということなのですか」
少年が、とても小さな声で言った。
「たとえば、僕があなたに、ここで僕の罪深さの所以をつまびらかにしたとして、あなたは、愛をもってそれをゆるしてくださるのですか」
先ほどよりは、いくらか大きい声だった。
少年の言葉を聞いて、美しい人はとても嬉しそうな顔をした。天頂の青を孕んだ双眸はきらめくほどに輝き、その唇はどんな花もかなわぬほどあでやかに微笑んでいた。美しい人は、白鳥のようにたおやかな首を、上品にかしげる。
「ええ、ええ。もちろんですわ、――愛しいひと。わたくしは、いまこのひと時にも、すべての人々を愛しているのです。わたくしは人の罪深さを知っています。けれど、その罪でさえ、なんと悲しい感情に彩られていることか。とても責め立てる気になどなれません。命を殺めたものは、その殺めたるところによって傷を負い、誰かの富を盗んだものは、その盗むところによって、達成されぬ精神の飢えという傷を負う。……そうやって、己の手で何かを欠けさせてしまったものたちは、常に救いとゆるしを求めています。それはわたくしにとって、あまりに切なる願いであり、幼子のようにいとけない、かわいらしい望みです。わたくしは、むしろ、罪を抱かざるをえなかった、その人々の侘びしさを哀れに思います。その哀れを、何とかして差し上げたいと思うのです」
いまや、辺りには光が洪水のように湧き起こっていた。その無垢な輝きは、少年と美しい人をひとしく取り囲み、彼らの間に横たわる空間の溝を、なかったこととして埋めていた。少年はそのことに怯えていた。
「それでは、傷つけられた人はどうするのですか」
すがりつくような声で少年は言った。
「理不尽な暴力をこうむった方の、つまり被害者は? だってあなた、そうでしょう。大なり小なり、自分の心根の弱さに負けて、他者を害するような人間なんて。――とてもゆるせたものじゃない。そんな奴は、いっそこの世から消えてしまえばいい」
美しい人はかすかに頭を揺らした。淡い燐光がちらちらと瞬く。美しい人は、繊細な指先を少年に向けて差し伸べる。
どこまでも真っ直ぐに、いっさいの混じりけもなしに、心ごとその手を伸べる。
そして言った。この世のものとも思えぬ声で。少年の心根にとどめの一刺しを入れるように。
「裁くことの、その、何とたやすいことでしょう。人は人を裁く。それはたしかに必要なことです。それならば。わたくしがゆるしを与えましょう、ゆるすことの出来ぬ人の代わりに」
かち。と少年の歯が鳴った。
「なればこそ、このわたくしが。知らず知らず、傷つけられたものたちの苦しみと、同じだけの傷を負いながら、裁きのなかに見失われる、罪びとの哀れをゆるしましょう」
少年はなおもうつむいたまま。固く力をこめた拳がぶるぶると震える。美しい人は、そんな彼をじっと見つめて、身じろぎもしない。ただ一心に、それゆえに切り付けるような鋭さと呵責なさを持った眼差しで、美しい人は少年のかたくなな表情に心を寄せる。
力いっぱいに、渾身の清らかさに手を差し伸べたまま。
「――これでも!」
やがて、弾けるような言葉が一声。
少年の身体がめまぐるしく挙動した。獣のごとき素早さ・無粋さ・気高さ、勝ち誇るような熱狂の表情で少年は美しい人を見る、その開かれた両目の、透きとおった無垢をひたとねめつけながら跳躍する。その手にしたものを、悪を裁くつるぎのように天井高く掲げながら。美しい人の頬がふるえ、唇がわずかに開いた。
甲高い破壊音。打撃の濁音。悲鳴はなかった。ただ、痛ましいまでの静寂と沈黙がその場を一挙に支配した。