はこ
ふとしたきっかけが大事を起こす。そんな言葉がぴったりと合致するような目にあって俺と同僚だったシケさんは軍から脱走した。言葉を選ぶなら、出奔したぐらいが適当なところだろう。きっかけはろくなことではない。輸送部隊の奴が忘れていった物を本部までヘリで届けてやったことである。忘れ物は小さなスーツケースに収まった重要機密だったから、お笑いだ。中身を覗いて驚いてしまった。本部に届けたものの俺たちの身柄は一時拘留された。
それからおえら方に呼ばれて『今日をもって退役』 を命じられたのである。報奨金と共に身柄は戦場を離れて本国に送還された。まず、おえら方が考えたのは機密漏洩による損益計算だった。だから機密が洩れても障害のない場所へ我々を移したのである。 その後、俺たちには監視が付くことになった。最初のうちは伊達だとか酔狂だとかと笑っていられたが、それにも限度があった。四六時中の監視は精神状態を著しく悪化させた。ふたりが逃げ出す算段を始めたのも、この頃だった。その頃から俺の前に一人の女が現れ始めた。行きずりの女はどこでどう間違ったのか俺に惚れ込んでしまい、逃避行について来てしまった。追っ手に追われて船に飛び乗ろうとしてシケさんが右手を撃ち抜かれた。それから、ずっと俺と女が右手の代理をしてやることになった。 白い布で右手を吊ってシケさんは恥ずかしいと言った。
「これは、俺が、こんなかで一番逃げんのが下手やということを証明してるようなもんや。情け無い。」
ひとしきりわめいてみせて、すっきりしたのか早速左手で文字を書く練習などを始めた。船は国境を越えて別の国へ俺たちを連れ出すのに成功した。偽造したパスポートがあれば、どこへでも自由に行けた。
俺とシケさんが辿り着いたのはどこかの街の図書館だった。年のいった司書がふたりして本についた分類カードに公用語以外の地方語を書き足している。ふたりの司書がどのくらいかかれば全ての本のカードに地方語が載るだろうか、図書館の本はただでさえ数が多いのに年寄りには過ぎた仕事だ。それにもまして彼等は地方語を使用する人ではないらしく、一々辞書で公用語から地方語へ翻訳している。
「なあ、あれは俺たちが使ってる言葉だよな。」
シケさんは彼等の様子を見ながらそんなことを言った。俺たちは両方を理解していたから、彼等の仕事振りはまどろっこしく思えた。ぼんやりと身体を休めていたシケさんは立ち上がり司書たちのほうへ歩み寄って行った。彼等と一言、ふた言 言葉を交わせて笑いながら彼等を引き連れてこちらへ戻って来た。手伝ってもいいってさ、シケさんはそう言った。あいつ、自分の立場がわかってんのかね。
「ねぇ、どうすればいいの。」
ああ、よせばいいのに厄介者がもう一人増えた。ふたりは司書の教える通りの手順に従ってカードに新しい文字を書き込んで行く。嬉しそうに楽しそうに、どんな言葉が当てはまるのかな、どれでも良さそうな気がする。束の間の休息というところだろうか。こうやって見ているとシケさんがバリバリの軍人で最前線にいたということ自体が信じられなくなる。図書館なんて長いこと来たこともなかったな。
しばらく手伝っているとやや年配司書のほうが一息入れましょう、と手を休めた。全員でお茶などすすってよもやま話に花を咲かせている。俺たちは単なる通りかがりのツーリストという設定が暗黙のうちに了承されているらしく、「御国はどんなところですか。」などという質問が飛び交っている。
「そうですか、今は大変なご時勢ですな。私らのような者はもう使用済みの烙印が押されて戦場へ飛ばされることもないでしょうが……」
年配の司書は昔を思い返すような眼で湯飲みを眺めている。彼にしか写らない画像は彼に何を見せたのだろうか。ぼんやりとたたずむイメージの中へ溶け込んでいて、ふと窓の外へ眼をやると一台の自動車が停車していた。そして、入り口には俺たちを追い駆けて来た奴等が今まさに入ろうと扉の前に立っていた。しかし、中のいかにも静かな雰囲気に圧倒されて入室をためらっていたらしい。俺が立ち上がって彼等に向かって歩み寄った。
「どうして入らないんだよ。捕まえたかったんじゃねぇーのかよ。」
「正直な話、かなり入り辛い。」
そういう彼等を無理に中へ連れて入った。最初、シケさんと彼女は驚いていたが、別段どうという変化も見せなかった。俺は承認と判断し、ふたりの司書に友人が追い駆けてやって来たことを告げた。ふたりは喜んで席を用意して茶を勧めてくれた。恐縮していたようだが、次第にうち溶けて話の流れに入り始めた。
どういう訳か追っ手の奴等までカードの書き替えに興じている。別にかまわんけどね、この後…カードの書き替えが終わったらどうなるんだろう。それを考えると背筋が凍る。
カードの書き替えが終わるよりも司書たちの就業終了時間が来てしまい、俺たちは全員建物から出なければならなくなった。司書のふたりはよければいつでも遊びに来るようにと言った。それから「お急ぎじゃなかったら、これから自分たちの家のほうへいらっしゃいませんか。」と言ってくれたが、さすがにそこまで行くことも出来ず、丁重に断って別れた。そして、彼等と俺たちが残った。沈黙が数秒間経過してようやく彼等のほうから口を開いた。三人が寄って短い密談を交わしてから俺たちに向き直った。
「これ以上の追跡は無意味だ、という結論に我々全員が達した。君達の行動から見て機密がどうということもなさそうだからな。」
「だけど偽造パスポートによる国外脱出っていう件はどうなる? 」
シケさんは慎重に事を進める。どんなに友好的な態度も内閣調査室の連中にとっては演技でしかない場合が多い…一般にこういうのを疑心暗鬼という。
「もちろん、そちらは手配する。しかし、この国や他の治外法権を認めない国では逮捕はできないだろうな。」
「OK! そちらの意見は承知した。今後一切関係なしだ。」
シケさんが勝手に取引の成立をさせた。だが、文句はない。こういう賭引きはシケさんの領分だから俺が横からチャチャをいれる必要はない。お互いに左右へ道が別れる。彼等は空港へ俺たちはこの国に。
「でも、どうしてあんなに簡単に手を引いたのかしら。それも『お構いなし』だなんて、信じられる? 」
「信じなきゃなんねぇーだろう。おまえこそ、あいつらに連いて帰ればよかったのに……どうして連いてくんだよ。」
「私はね。あんたが気に入ったの。離れないからね。」
下手な漫才をやってるようなもんだ。その傍らでシケさんが肩を小刻みに揺らして笑っている。笑う度に「イタタ…ッ」という悲鳴を上げている。
「やめた、やめた。居座っちまった奴に文句言っても始まんねぇー」
それからおえら方に呼ばれて『今日をもって退役』 を命じられたのである。報奨金と共に身柄は戦場を離れて本国に送還された。まず、おえら方が考えたのは機密漏洩による損益計算だった。だから機密が洩れても障害のない場所へ我々を移したのである。 その後、俺たちには監視が付くことになった。最初のうちは伊達だとか酔狂だとかと笑っていられたが、それにも限度があった。四六時中の監視は精神状態を著しく悪化させた。ふたりが逃げ出す算段を始めたのも、この頃だった。その頃から俺の前に一人の女が現れ始めた。行きずりの女はどこでどう間違ったのか俺に惚れ込んでしまい、逃避行について来てしまった。追っ手に追われて船に飛び乗ろうとしてシケさんが右手を撃ち抜かれた。それから、ずっと俺と女が右手の代理をしてやることになった。 白い布で右手を吊ってシケさんは恥ずかしいと言った。
「これは、俺が、こんなかで一番逃げんのが下手やということを証明してるようなもんや。情け無い。」
ひとしきりわめいてみせて、すっきりしたのか早速左手で文字を書く練習などを始めた。船は国境を越えて別の国へ俺たちを連れ出すのに成功した。偽造したパスポートがあれば、どこへでも自由に行けた。
俺とシケさんが辿り着いたのはどこかの街の図書館だった。年のいった司書がふたりして本についた分類カードに公用語以外の地方語を書き足している。ふたりの司書がどのくらいかかれば全ての本のカードに地方語が載るだろうか、図書館の本はただでさえ数が多いのに年寄りには過ぎた仕事だ。それにもまして彼等は地方語を使用する人ではないらしく、一々辞書で公用語から地方語へ翻訳している。
「なあ、あれは俺たちが使ってる言葉だよな。」
シケさんは彼等の様子を見ながらそんなことを言った。俺たちは両方を理解していたから、彼等の仕事振りはまどろっこしく思えた。ぼんやりと身体を休めていたシケさんは立ち上がり司書たちのほうへ歩み寄って行った。彼等と一言、ふた言 言葉を交わせて笑いながら彼等を引き連れてこちらへ戻って来た。手伝ってもいいってさ、シケさんはそう言った。あいつ、自分の立場がわかってんのかね。
「ねぇ、どうすればいいの。」
ああ、よせばいいのに厄介者がもう一人増えた。ふたりは司書の教える通りの手順に従ってカードに新しい文字を書き込んで行く。嬉しそうに楽しそうに、どんな言葉が当てはまるのかな、どれでも良さそうな気がする。束の間の休息というところだろうか。こうやって見ているとシケさんがバリバリの軍人で最前線にいたということ自体が信じられなくなる。図書館なんて長いこと来たこともなかったな。
しばらく手伝っているとやや年配司書のほうが一息入れましょう、と手を休めた。全員でお茶などすすってよもやま話に花を咲かせている。俺たちは単なる通りかがりのツーリストという設定が暗黙のうちに了承されているらしく、「御国はどんなところですか。」などという質問が飛び交っている。
「そうですか、今は大変なご時勢ですな。私らのような者はもう使用済みの烙印が押されて戦場へ飛ばされることもないでしょうが……」
年配の司書は昔を思い返すような眼で湯飲みを眺めている。彼にしか写らない画像は彼に何を見せたのだろうか。ぼんやりとたたずむイメージの中へ溶け込んでいて、ふと窓の外へ眼をやると一台の自動車が停車していた。そして、入り口には俺たちを追い駆けて来た奴等が今まさに入ろうと扉の前に立っていた。しかし、中のいかにも静かな雰囲気に圧倒されて入室をためらっていたらしい。俺が立ち上がって彼等に向かって歩み寄った。
「どうして入らないんだよ。捕まえたかったんじゃねぇーのかよ。」
「正直な話、かなり入り辛い。」
そういう彼等を無理に中へ連れて入った。最初、シケさんと彼女は驚いていたが、別段どうという変化も見せなかった。俺は承認と判断し、ふたりの司書に友人が追い駆けてやって来たことを告げた。ふたりは喜んで席を用意して茶を勧めてくれた。恐縮していたようだが、次第にうち溶けて話の流れに入り始めた。
どういう訳か追っ手の奴等までカードの書き替えに興じている。別にかまわんけどね、この後…カードの書き替えが終わったらどうなるんだろう。それを考えると背筋が凍る。
カードの書き替えが終わるよりも司書たちの就業終了時間が来てしまい、俺たちは全員建物から出なければならなくなった。司書のふたりはよければいつでも遊びに来るようにと言った。それから「お急ぎじゃなかったら、これから自分たちの家のほうへいらっしゃいませんか。」と言ってくれたが、さすがにそこまで行くことも出来ず、丁重に断って別れた。そして、彼等と俺たちが残った。沈黙が数秒間経過してようやく彼等のほうから口を開いた。三人が寄って短い密談を交わしてから俺たちに向き直った。
「これ以上の追跡は無意味だ、という結論に我々全員が達した。君達の行動から見て機密がどうということもなさそうだからな。」
「だけど偽造パスポートによる国外脱出っていう件はどうなる? 」
シケさんは慎重に事を進める。どんなに友好的な態度も内閣調査室の連中にとっては演技でしかない場合が多い…一般にこういうのを疑心暗鬼という。
「もちろん、そちらは手配する。しかし、この国や他の治外法権を認めない国では逮捕はできないだろうな。」
「OK! そちらの意見は承知した。今後一切関係なしだ。」
シケさんが勝手に取引の成立をさせた。だが、文句はない。こういう賭引きはシケさんの領分だから俺が横からチャチャをいれる必要はない。お互いに左右へ道が別れる。彼等は空港へ俺たちはこの国に。
「でも、どうしてあんなに簡単に手を引いたのかしら。それも『お構いなし』だなんて、信じられる? 」
「信じなきゃなんねぇーだろう。おまえこそ、あいつらに連いて帰ればよかったのに……どうして連いてくんだよ。」
「私はね。あんたが気に入ったの。離れないからね。」
下手な漫才をやってるようなもんだ。その傍らでシケさんが肩を小刻みに揺らして笑っている。笑う度に「イタタ…ッ」という悲鳴を上げている。
「やめた、やめた。居座っちまった奴に文句言っても始まんねぇー」