ラクガキ 1
女はまだ何か言いたかったようだが、男の影でむっすりと黙り込んでいた。
祐綺はほっと胸をなでおろした。
ここが使えなくなれば、残りの昼食場所は教室か屋上だ。
教室で1人で食べるのには抵抗があるし、屋上は時々ラブストーリーが開催されてしまうので落ち着いて食べて居られない。
つまりこれで、究極の選択である便所飯だけは逃れられたわけだ。
「交渉成立だね。じゃ、早速だけどちょっとどいてもらえるかな?
君がお弁当を置いてるその折りたたまれた机に用があるんでね。」
「あ、はい。」
祐綺はいそいで弁当を片付け、階段裏から出た。それを見届けた2人は各自2つづつ机を出し、その空間から出てきた。
「じゃ、ありがとう。あと15分で5時間目だから、遅れないようにね。」
こうして、2人は階段横の非常口から生徒会のある教室棟へと、霧雨の中を歩いて行った。
弁当は再び開けられ、ついにすべて彼の腹の中へと収まった。
ノートの少年は彼と少々の会話をした後、また鞄の中へと帰って行った。
その後、折りたたみ机が6つになった生徒会室では、外に漏れないとある話し声があった。
「…まちがいない、彼だね。例の“消える蜂”の正体は。」
「だったら!なんで生徒会室に連れて来なかったんですか!」
「君があんな剣幕で迫っちゃ、来るものも来ないさ。彼、1年生だよ?」
「まぁ、怒られるとわかってくる奴はいないからなぁ…瑞樹の判断が最善だったんじゃないか?」
「籐子まで…!」
「わかったわかった。じゃ、当分は彼に見張りをつけておく。それでいいでしょう。」
「そうですね。担任によると庄司君は無部だそうですから、昼休みと放課後に目をつけておけば大した労力も掛かりませんし、ね。」
「じゃ、今日の会議はここまでってことで。妹尾、カリカリしてないで本部のほうにも報告しとけよ。」
「カリカリしてません!言われなくても報告します!」
「おー、こわいこわい。」
「それでは、また放課後に。」
ここで話し声は止み、5人は教室へと戻って行った。
霧雨は、その日午後3時までしんしんと降り続いていた。
放課後になると雨はやみ、じっとりと纏わりつくような曇り空が立ち込めていた。
祐綺は鞄に教科書をしまうと、今日は掃除当番でないのをしっかりと確認し、足早に教室を出た。
廊下を曲がって階段を降りようとした時、彼は掃除中の佐々木と出くわした。
「帰るの?」
「うん。部活、頑張れよ。」
2mに届こうかという巨体はゆっくり首をかしげ、応える。
「…頑張るほどやることないけど、頑張る。」
「なんでだよ。そのデカい体を役立てろよ。」
「…1年だから、雑用中心だし、練習試合では、立ってればいいって言われる。」
「……あっそ。じゃ、ほどほどにな。」
「おう。」
そうしていつも通りの短い会話を終えたのち、拍子抜けした祐綺の後姿を見守って、佐々木は掃除を再開した。
しんとした屋外は、放課後とは思えない違和感を漂わせている。
駐輪場には屋根と柱からなる粗末な自転車小屋が規則正しく並んでいる。
祐綺は広い駐輪場から自分の自転車を探していたが、最初はそれと気づくことが出来なかった。
彼の自転車には見知らぬ男が居座っていたからだ。
ワイシャツに黒のデニムといったいでたちが、生徒ではないことを物語っている。
たかだか10台分のスペースしかない狭い自転車小屋の空間すべてが自分の領地であるかのように、
男は体全体でリズムをとって元々広いであろうパーソナルスペースをさらに広げている。
態度からみても行動からみても、厄介な人種であることには間違いなかった。
「あの、それ俺の自転車なんですけど。」
男はイヤホンから流れる音楽に夢中になっているようで、跨る自転車はリズムに合わせて軋んでいる。
もちろん、つぶやきに近い祐綺の声など届いていなかった。
かかわり合いになりたくないけど、仕方ない。そう、祐綺は覚悟を決め、大きく息を吸い込んだ。
「ちょっと!」
「ん?」
男はやっとイヤホンを外し、祐綺の存在に気付いたようだった。
「よお、君、ここの学校の生徒?」
「…はあ。」
「そっか~、頭いいんだねぇ、君。実はおれ、ここの卒業生でさぁ。見える?」
首に下げたイヤホンからは相変わらず音が出ている。
ドラムともベースともつかないその音を聞いていると、男の尻に敷かれた自転車が霞む程度の苛立ちがやっとのことで沁み出てきた。
「まあ、昔は今ほど進学校じゃなかったし、自慢するほどでもないんだけどさぁ!
去年の甲子園さぁ、惜しかったねぇ~。あ、君、出た?」
「……いや。出てないです。」
「そりゃそうか、今の時間に帰るんだもんなぁ!」
あっはっはと、作りもののような笑いが響いた。
ここで先生が通りかかるなりなんなりしてくれれば話は早いのだが、相変わらず駐輪場は閑散としている。
いい加減どいてもらわないと、掃除を終えた連中がこのあたりに続々と現れる。
そうした瞬間は、祐綺がもっとも苦手とするパターンの一つだった。
「…それ。俺の自転車なんで、どいてもらえませんか?」
決死の言葉は震え掠れ、小さかった。だが、男に聞かせるには十分だった。
「ああ、悪ぃな。」
そう言って、彼はイヤホンをポケットにしまい、意外にも早く自転車から降りた。
「ほら、どうぞ。」
「…どうも。」
男はゆっくりと背を向け、校門とは逆方向に歩き出す。
やけにあっさりしてるなと疑いを持ちながらも、祐綺は自転車の鍵を外し校門に向かおうと方向転換をした。
そのとき。
「ついでにちょっと教えてほしいんだけどさぁ。」
祐綺の背後から、ふいに声が掛けられた。
「なんか、匂うんだよねぇ、君。」
祐綺は無視して行こうとしたが、気づいた。
自転車が動かない。
「もしかして、フツウの人とは違っちゃったりするわけ?」
男は先ほどと同じ速さでこちらに近づいてくる。
自転車はハンダで接着されたかのように、尚も動かない。
肩に引っかけた鞄がずれ、ぎりぎりと祐綺の二の腕を刺激する。
「俺さぁ、今日はここに勧誘で来てるわけ。さっきまで外ればっかだったんだけどさぁ…」
ああ厭だ、とうとう来た。異質ながらも平穏な日常はこうして終わってしまうんだ。
諦めたくはないが、こんな非凡な運命につくづく呆れてしまう。
祐綺は無意識に胸ポケットに触れた。そこでは昼ご飯を共にした少年が今も隠れている。
普段から何気ない話をするため、登下校の際には胸ポケットのミニノートに移動していたからだ。
「仕切り直して聞かせてもらうよ…」
今だ自転車は動かない。ピクリとも。
「君の、意志と、本質についてね。」
祐綺が自転車をあきらめ飛びのいて男から遠ざかったのと、
同時に、
自転車小屋を無数の刃が貫いた。
「?!」
祐綺は鞄を抱え、男からさらに後ずさった。
「おお、よけた!やっぱり違うねぇ。勘が当たってるみたいでうれしいよ。」
「な…なんなんだ、あんた!」
「なんなんだってか…あいにく、自己紹介できる名前は持ってなくてね。
強いて言うなら、テロリスト…って感じかなぁ?」
男は無機質な剣山に成り果てた自転車小屋をなでまわし、出来あがった作品を愛でる芸術家のようにうっとりとしている。
「テ、テロ…」