相聞歌
年頃の男は出征が決まって慌しく結婚し、その後間もなくに戦地へ向かって、戻って来られない例も珍しくない時代だった。誰もが明日をも知れない状況だったし、軍人のところに嫁に来ようとするのだから覚悟の上だろうと、両親は進一郎を説得したと祖母は続けた。
「そうしたら兄さん、『俺には好いとるんがおるけん』って言ったのよ」
『俺には好いとるんがおるけん。そがなあ(そいつ)しか考えられん。戦争が終わって無事戻って来られたら、言うつもりじゃ』
きっぱり断りを入れてくれ、もしくは自分にこの縁談を話す暇がなかったと言えばいい…と言い置いて進一郎は任地に帰って行ったのだが、両親ははっきり先方に断れず、彼が次の休暇で戻った時にでも仕切りなおして説得しようとしたらしい。
「結局、兄さんが休暇で帰ってきたのはそれが最後で、おばあちゃんの結婚式にも顔を出さんかった」
「好きな人って、ばあちゃんの知ってる人だったのか?」
「さあねぇ、おばあちゃんのお父さん達が、どんなに問い詰めても言わんかったし、お父さんったら、小谷さんとこの英治さんにまで聞きに行ったんよ。英治さんは兄さんの一番の親友で、身体を壊して戦争に行かんかったから近所に住んどったの。あの休暇の時にも逢ぅとったようだし。英治さんには話しとるんじゃないかってねぇ。でもわからんかったみたい。英治さんの口が堅かったんかも知れんけど」
「戦争が終わったら告白するって言ってたんだろ?」
佐衛士のこの質問に、祖母は少し表情を曇らせる。
「きっとその人も『あの日』に亡くなったんでしょう」
祖母の言う『あの日』が、昭和二十年八月六日のことであることは佐衛士にもわかった。あの八月六日に大伯父と祖母は、両親・きょうだいと親類縁者のほとんどを失った。七人家族の西村家で残ったのは、横須賀で沿岸防御の任に就いていた大伯父と、その年の春に隣の岡山県に嫁いだ祖母の二人だけだった。
「じいちゃんは、ずっとその人のこと好きだったのかな」
「どうかしらねぇ。すごく好いとったことは確かだと思うけど。毎年、あの日には必ず墓参りに行っとったようだから」
昭和三十年に仕事の関係で、祖父母一家が岡山から東京に引っ越した際、西村家の墓も移したため、墓参で帰省する必要もなかったのだが、大伯父は亡くなる前年まで欠かさず八月六日に帰っていた。遺族として式典に出席している様子はなく、朝出来るだけ早い飛行機に乗って、夕方には自室に戻っていた。居間の座卓の上に紅葉饅頭が乗っていることで、佐衛士は大伯父がその日、遠出したことを知るのだった。
大伯父は戦後、東京の商社に勤め、働き盛りで妹の夫、佐衛士の祖父が病没すると一家の生活は彼が援助した。三人の子供達は娘を含め皆、大学まで進学させ、祖母が和裁や着付けを教えて生活の糧にしたいと言えば、自分の家、つまりこの家を改築して使わせた。子供達が独立した後、祖母は大伯父の面倒を見ると言うことでここに越してきたのだった。
「結婚して西村の名を残してくれって頼んだら、『おまえの子に継がせてくれ、財産はその子に残すから』って言ってねぇ。上司や取引先の人がずい分な年になるまで縁談を持って来てくれたけど、とうとう独り身を通したわねぇ」
大伯父は昭和二十年の七月に横須賀港沖から米軍の攻撃を受け、瀕死の重傷を負う。戦況の不利を国民に公表しなかった時勢と、士官の詳しい任地は機密とされていたことから、家族は大伯父が大怪我で入院していたことを知らずにいた。
自分はあの時に死んでいてもおかしくなかった。家名を遺すべき人間はいなかったかも知れない――大伯父はそう言って、自分の子に家を継がせることに拘らなかったと祖母は言った。
「あらあら、もうこんな時間。おばあちゃん、お夕飯の支度をしてくるわね。佐衛ちゃんもご苦労さま。今日はこれくらいにしたら? どうせ一日じゃ終らんわよ。ご飯の前にお風呂に入っちゃいなさい」
「この戸袋の中の物だけ出しとくよ」
祖母の思い出話にいつも以上に付き合ったため、片付けの手が止まってしまっていた。気がつくとすっかり陽が傾き、南と西向きの部屋は薄暗くなっている。
電気をつけると、足の踏み場もないくらいだ。海軍時代の物が入った箱が出てきたおかげで、祖母は片付けと言うより逆に拡げてしまったのだった。多分これらの品々は処分されることなく、大事に仕舞われることになるから無碍には扱えない。片付ける手間が更に加わり、佐衛士はため息をついた。とりあえず海軍時代のものを元の箱に注意深く詰め直してから、まだ何か残っていないか戸袋を確認した。
戸袋の一番奥にもう一つ箱が見える。書類ケースのような薄い箱で、それで戸袋の中は最後だった。
取り出して開けてみると、紙縒りで括られた手紙が二束、便箋、海軍の刻印がされた黒い手帳と写真が二枚入っていた。
「また海軍時代の写真かな」
まず写真に手を伸ばす。一枚目は家族写真だった。兵学校を卒業した時か、それとも任官した時に家族で撮ったものだろう。海軍時代の箱に入っていた集合写真より更に若い頃の大伯父と、両親に兄弟姉妹、大伯父達の祖母だと思われる老女が写っている。
――これ、ばあちゃんかな
二本の三つ編みを肩から胸に垂らした少女に、佐衛士は祖母の面影を見た。
もう一枚の写真はスナップ写真だった。帽子を脱いだ大伯父らしき人物と同じ年頃の青年が、涼やかに笑って写るラフなものだ。裏に反せば「昭和十五年八月、英治と」とあった。計算すると大伯父が十七才の時のもので、隣に写っているのが幼馴染で親友の小谷英治らしい。
佐衛士は次に二束の手紙に目を移す。一つは家族からの物、もう一つは小谷英治からの物だった。家族と同様に扱うほど仲の良い幼馴染、大切な親友だったことが窺える。
手紙の束の下になっていた便箋を何気に開くと、文章が綴られていた。
小谷英治様――親友に宛てたものだ。
「字、上手過ぎ」
大伯父は本当にスーパーマンみたいな人間だったのだなと、佐衛士は関心した。
人の手紙を読む趣味はないし、読むことに対して後ろめたさもある。しかし今回、それらを上回る好奇心が佐衛士を誘っている。佐衛士から見ればスーパーマンのごとき大伯父が、どんな手紙を書くのか興味があった。小谷英治に宛てた手紙だからこそと言うのもある。いくら親友だと言っても、扱いが特別過ぎやしないか。一生独身で過ごした大伯父。佐衛士の中には一種の期待が膨らんでいた。
亡くなった人だし…と変に自分を納得させ、佐衛士は文面に目を走らせた。
手紙は昭和二十年七月、重傷を負って入院している時期のものらしかった。軍人となった以上、常に死は覚悟していたし、それまでにも死線は何度も越えてきたのだが、今回ほど死を身近に感じ、意識したことはなかったと始まっている。
『戦争が終わって無事に帰ることが出来たならば言おうと思っていたことだけれど、どうしてもこの気持ちを伝えたくてならず、筆を執った。任地からの手紙は人の目に触れる可能性がある。この手紙を出せるかどうかは知れないが、ここに記しておく。