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相聞歌

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(1)




 バチンと、佐衛士(さえし)の左頬が鳴った。痛みと同時に、
「仕事、仕事って、じゃあ、この前、一緒に歩いてたヤツ、誰だよ」
の声が浴びせかけられる。そこから延々と拓真の恨み節が続いた。
 拓真が佐衛士の自宅を訪ねて来たのには驚いたが、こんなみっともないところを友人や遊び仲間達に見られることを思えば、ここでの方がまだマシだった。住人達の平均年齢が高い閑静な住宅地は、夏の昼間ともなると土曜日でも人気は少ない。佐衛士は父親の転勤を機に、高校生の頃から実家を離れて祖母と祖母の兄、つまり大伯父と暮らしているが、祖母は書道展に出かけていたし、家の一番奥にある大伯父の部屋まで、この玄関のやり取りは聞こえていないはずだ。
――そろそろ潮時かも知れないな
 他人事のように拓真の言葉を聞き流しながら、佐衛士は思った。
 特定の相手と一年近くも続くのは珍しかった。ゲイ同士の出会いは男女と違って簡単ではないから大事だと言う仲間もいるが、数少ない出会いだからこそ、妥協したくないと言う気持ちが佐衛士にはある。それ系の店で、一夜限りのつもりで声をかけた尾川拓真のような相手とは、特に長く付き合う気はなかった。
 それは拓真も同様だったはずだ。最初に声をかけた時、すでに付き合っている相手がいることは聞いていた。その恋人と大喧嘩をした後だとかで、店には憂さ晴らしに来ていたのだ。恋人がいても他の男と遊べる性質(たち)。後腐れがなくて良いが、深く付き合うタイプではないことはすぐにわかった。
 ところが暇な時に連絡を取り合って会ううちに、拓真は恋人と別れてしまった。そしていつの間にやらその位置に、佐衛士が収まっていたのだ――佐衛士自身は全く意識していなかったことだが。
「あれは従弟だ。ゴールデンウィークだから遊びに来たんだ」
 そんなありきたりな嘘が当然通るはずはない。夜の十一時に腕を組んで、ホテル街を歩いていたところを見られたのだとしたら、かなり苦しい嘘である。案の定、拓真はそう言ったところを突いて、機関銃のように言葉を繰り出した。
 佐衛士から見れば、拓真も人のことは責められない。行きつけの店で彼の行状は聞こえてくる。だからこそ、後腐れのない関係を保てる相手だと思ってダラダラと付き合いを続けていたのだが、佐衛士が他の男と親しげなのを目の当たりにすると、自分のことは棚に上げてこうなるのであれば、今後のつきあいを考えた方が良いだろう。
「何とか言ったらどうなんだよ」
 まるでテレビ・ドラマに出てくる「恋人に浮気されて怒りまくるステレオ・タイプの女」だな…と佐衛士は思った。
「別に悪いことしたと思ってないしな」
「なんだよ、それ?」
「俺が誰と付き合おうと、おまえに関係あるのか?」
「別れるって言うのか?!」
「そもそも俺達、付き合ってたっけ?」
 最初の一発は不意打ちだったが、次の一発は予測出来た。左頬に向ってくる拓真の手を佐衛士は掴んだ。バランスを崩して彼が前につんのめるので、仕方なく支えてやる。
「二発殴らせるほど、俺、寛大じゃないんだ」
 佐衛士の言葉に拓真は唇を引き結んだ。左足の向う脛に、先ほど頬に受けたのとは比べものにならない衝撃と痛みを佐衛士は感じた。拓真の蹴りが入ったのだ。堪らず掴んでいた彼の手を離す。
「最低! もう連絡してくんな!」
 拓真はそう言うと、怒りに満ち溢れた背中を見せながら、帰って行った。
 佐衛士はため息をつきつつ、拓真が出て行った後の玄関の引き戸を閉める。
後腐れてしまったが、これで良かったと思った。この春から社会人になり、まだまだ出会うチャンスがあると考えられるのに、一人の人間に縛られたくない。もともと拓真との関係は行きずりのつもりだったし、佐衛士には付き合っている自覚もなかった。さっさとケリをつけるべきだったのだ。
 自室に戻ろうと玄関からすぐの居間の前を通った時、人影を視界の隅に捉えた。
「じいちゃん、いたの?」
 じいちゃん=大伯父が、縁側で松の盆栽を弄っていた。居間の縁側は東と南に面していて、大伯父はよくそこで盆栽の手入れをする。それを佐衛士はすっかり忘れていた。
 玄関に近く、入り口の引き戸は普段、開け放しの居間なので、先ほどの拓真との話が聞こえていたのは確かだ。
「いつから?」
「十分ほど前かな」
 十分ほど前と言えば、話が佳境に入った頃で、会話のボリュームが上がっていた。痴話喧嘩であることは知られているに違いなかった。
「聞こえたよね?」
「まあなあ、大声だったからなぁ」
 松の枝振りを直していた手を止め、大伯父が佐衛士を見た。佐衛士は一挙に脱力し、無意識に彼の傍に腰を下ろした。
 身内に、それも同性同士の恋愛沙汰など理解出来ないであろう年寄りに知られたことの、バツの悪さと言ったらなかった。知られたのが少しばかり天然の入った祖母ならともかく、大伯父だったことが佐衛士を尚更な気分にさせる。
 八十一才でありながら大伯父は頭の衰えを微塵も感じさせなかった。毎朝、新聞の隅々まで目を通し、政治、経済、国際情勢などは佐衛士よりも詳しかった。時々は英字新聞も読んでいるようだった。
 才走った大正生まれにはゲイと言う性癖は知識としてあったとしても、容認までしているのかどうなのか。
「追いかけんでも良かったのか?」
「いいんだ」
「恋人じゃろう?」
「そんなんじゃないと、俺は思ってたんだけどね」
 大伯父とのあまりにも自然なやり取りに、気まずい雰囲気を予想した佐衛士は面食らう。盆栽に鋏を入れる大伯父の横顔には、何の変化も見えなかった。
 佐衛士は西村家の長男で、下には妹しかいない。ごく普通のサラリーマン家庭ではあるものの、家の名前を継ぐのは佐衛士だけなのである。大伯父の生まれ育った時代では、長男は家庭を持って当たり前、子供を作って家名を存続させることが、義務のようになっていた。その価値観からすれば、何も成さない同性同士の恋愛は理解するよりも、それ以前の問題だろうに。
――そう言えば、じいちゃんは独身だ
 実は西村家は大伯父がいるにもかかわらず、祖母の血筋が継ぐ形になっている。次男だった佐衛士の父親が名前を継いだのだ。それは大伯父が独身を通しているからだった。
「なんだ? わしの顔に、何かついておるのか?」
 再び手を止めて、大伯父は佐衛士を見た。
「リアクションが、思ってたのと違うからさ。俺が男と付き合ってたりするの、引かないの?」
「別に、軍隊じゃあ、珍しくもなかったからな」
「え?」
「好いた好かんの感情は知らんが、男ばかりの世界じゃ、いろいろとガス抜きが必要だったってことさね」
 大伯父が笑った。一緒に暮らし始めて今まで、笑った顔を見たことがないわけではないが、それはたまたま顔を合わせた祖母の和裁の生徒や友人へのお愛想程度の微笑みで、直接佐衛士に向けられたことはなかった。食事や盆栽をいじる時以外、自室から出てこない大伯父と佐衛士に普段接点はなく、笑顔どころか、こうして一対一で話すことが、もしかしたら初めてかも知れない。佐衛士が彼のことを少し苦手に思っていることも、接点の少ない原因だった。
作品名:相聞歌 作家名:紙森けい