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置き忘れた京子への思い

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『置き忘れた京子への思い』

夏の日、故郷を三十年ぶりに訪ねた。墓参りのためである。故郷には、もう肉親はいない。帰る家もない。残るは、年賀状も通わさない親戚だけである。そんなわけで、故郷で一番由緒のある旅館に泊まることにした。

 駅を降りると、強い日差しが喧しい蝉の声とともに出迎えてくれ、見上げると白い雲が気まぐれに青い空を過っている。
 三十年ぶりの故郷は何もかも変わっていた。かつて華やかだった駅前のホテルは潰れて廃墟のようになっている。駅から上り坂の道をまっすぐに行ったところ泊まる旅館がいる。道の両側には桜並木がある。それは今も変わらない。
出迎えてくれた女将を見て驚いた。遠い昔、恋した京子だったからである。向こうも驚きの色を隠さず、嬉しそうに迎えてくれた。
旅館の入口を上がると、らせん階段があった。
「エレベータでどうぞ」と言われたが、
「いえ、階段で行きます」と答えると、京子はくすっと少女のように笑った。
「昔も同じようなことがあったわ」
同じようなこと?……必至に思い出した。そういえば、ずっと前、誰かと一緒に泊まったホテルに同じようならせん階段があった。あの時、京子だったが?  
 部屋に案内された。
 その部屋から海が見えた。昔と変わらない青い海がある。
 京子はお茶を入れた。その姿を眺めながら、「昔と変わらない」と呟くと、
 京子は「え? 何が?」と聞いた。
「海も、京子さんも」
 京子は少し間をおいて、「嬉しいけど、何を言っているの。ずいぶん、変わったわ。三十年前の京子はずっと昔に消えたわ。そう言う由紀夫さんこそ、昔とちっとも変わらない。そうだ、夕食が終わったら、部屋を訪ねていいかしら。昔話をしたくて」
「こちらこそ、お願いします」
ウィスキーのボトルを持って、八時過ぎにきた。
「もう、遅いかしら?」
「とんでもない。まだ夜が始まったばかりじゃないですか?」
「そうね。私も一緒にいただこうかしら?」
「よろしければ、ぜひ、そうしてください。一人だと、つまらないし……」
 とりとめのない話をした。
 京子もだいぶ酔ってきた。
 突然、京子は「今もデザイナーをしているの?」と聞いた。
「細々と。でも、女房が死んでから、あまり仕事をしていませんが」
「奥さんがいたんだ!」とびっくりした。
「おかしいですか?」
「だって、結婚は嫌いだ。束縛されるのは嫌だと言っていたから」と京子は笑った。
昔から京子は笑い上戸だった。
「あれから……この故郷を離れて、東京に行って、いい人を見つけたんですね」
「いい人かどうか分かりませんが……でも、もう五年前に亡くなりました。幸の薄い女でした。子供を欲しがっていましたが、とうとうできませんでした。彼女は海辺に暮らすのが夢でしたが、その夢も実現しないまま、この世を去りました」
「余計なことを聞いたみたい……切ないことを思い出せて、ごめんなさい。私はこの旅館を経営する夫に嫁ぎました。後妻ですけど。嫁いで、二十五年が過ぎました。嫁いだ日のこと、まるで昨日のことのように思い出すことができます」
 黙った。
 彼女の顔を見ていたら、彼女がテニスをしていた頃を思い出した。
「まだ、テニスをしていますか」?と聞くと、
「テニスを?」
「だって、高校時代、テニスをして、この近くのテニスコートで練習をしていたじゃないですか?」
京子は笑った。
「そんな昔のこと、よく覚えていたわね」
「あの頃の京子さんは憧れでした。夏の日、白いテニスウェアで練習する姿は眩しく見えましたよ。遠い夏の思い出ですが、誰が恋人にするのかと、よく話したものです」
「そんなことがあったの? ちっとも知らなかった。声をかけてくれたら……きっと……。だいぶ酔ったみたい。あら、もうこんな時間。また明日……」と京子は慌てて部屋を出た。
 京子宛に何度もラブレターを書いたが、結局、出さなかった。いつだったか、「あなたみたいなチャランポランな人間は好きではない」と言われたことがずっと心に残っていたので、恋心を抱きながらも、ラブレターを出さなかったのである。
 部屋の窓から、通り過ぎる船の明かりが見えた。漆黒の闇に浮かぶマッチのような明かりである。

 翌朝、朝食をとった後、旅館の裏にある浜辺を歩いた。
 海が朝日を浴びてきらめいていた。近くの小さな港があり、漁船が出たり入ったりしている。青い空では、カモメが緩やかな円を描いて飛んでいる。
 砂浜で海を眺めていたら、日傘を差した京子がやって来た。
「ここにいたんですね」と京子は呟いた。
「昔、よく海を見に来ました。あなたとも」
「そうですね。二人でよく見ました。飽きもせず、いろんな話をしました。将来の夢とか。あの頃、由紀夫さんは輝いていた。東京で働く夢をいつも話していた。私も……」と京子は言葉に詰まった。
「昨年、私も夫を亡くしました。……もう、良いわよね。昔のことを話しても。私も一緒に東京に行きたかった。でも、体の良くなかった母がいたから、できなかった。高校出ると、すぐに働いた。大学から帰省する由紀夫さんを何度か見かけたけど、声がかけられなかった。どこか住む世界が違うと、自分で言いきかせたの」
「声をかけてくれればよかったのに、僕も実をいうと、高校時代、京子さんに恋した。出さなかったラブレターが十通近くありました」
「十通も! 一通くらい出してくれたなら、きっと私は……」と京子の目に涙が流れた。
「遠い昔なのに、まるで昨日のことに思い出してしまって。ほんのちょっと乗り越えれば、三十年前に遡れる、そんな馬鹿げた気持ちになってしまった」
「僕は会社を興しましたが、失敗しました。多額の借金を抱えたとき、妻は失意のまま他界しました。自分が妻の死を早めたようなものです。今は思い出だけを引き摺って生きています。でも、きっと三十年前よりも今が良い。そう信じています」
 そこで会話は止まった。

 翌日、旅館を出た。もう二度と京子の旅館に来ることはないだろうと思って旅館を後にした。

 帰省から一か月過ぎた。
 帰り際に、京子は必ず手紙を書くと言っていたが、一向に届かないが、それで良いのだと思った。
横浜で海を見ながら暮らしていると、ふと京子の顔が懐かしく浮かぶ。それ以下でも、それ以上でもない。ただ、どこかで、何かを置き忘れたような気がしてならなかった。海を眺めているうちに分かった。三十年、京子への思いを置き忘れた。……時間は戻らない。誰もが時間という川に浮かぶ木葉に過ぎない。過去から未来へと流されていく。流される度に、何かを置き忘れていくのだ。