夏の日の恋
『夏の日の恋』
ケイスケは窓を開けて、空を眺めた。雲ひとつない青空が広がっていた。それは紛れもない夏の空である。
三年前の夏、東京から山に囲まれた内陸の山形市に来た。そのときも、同じような青空が広がっていた。東京から離れるとき、ケイスケは愛していたミユと別れた。夏が来る度に、そのことが苦い思い出となって蘇る。
ミユは浴衣が似合う細身でいい女だった。自分から進んで語らない控えめな女で、まるで軒下でひっそりと咲く花のようであった。いつも微笑んで迎えてくれる、心の根の優しい女であった。長い黒髪、長い眉、大きな目、面長の顔、細い体、細い手、細い足、その全てをケイスケは愛した。
三年前の春、会社で不祥事が起こり、社長が引率責任をとり辞めた。その後、専務が社長になり、大規模な組織改革が行われた。かつて社長を担いでいた者はことごとく左遷されるか降格させられた。
ケイスケは親しくしていたK部長と飲んだ。
「会社はどうなるんでしょう?」と聞いた。
「そんなの俺に聞くなよ。俺は勝ち馬に乗れなかった人間だ。昨日、内示が出たんだ。管理部へ行けと命じられた。何をすると思う? 毎日、毎日、伝票の整理だよ」と部長は笑った。その笑いが実に卑屈に歪んでいた。その笑みを見て、会社がどういうものかが、ケイスケは分かった。会社は階級社会である。出世するのは官軍、格下げは賊軍だ。賊軍は肩身の狭い思いで生きなければならない。出世するのももっともらしい理由がある。だが、あくまでそれは表向きことだ。本当は裏の世界で決まる。人間の欲とか人間関係とかいったものがどろどろと絡み合って決まる。K部長は会社の未来を背負う男と言われたが、専務からみれば、前社長を担いだ、単なる邪魔者に過ぎない。その結果、弾き飛ばされた。ケイスケはK部長に可愛がれた一人だった。部長の話を聞いて、いつか自分も弾き飛ばされる日が来ると不安になった。
ちょうど梅雨が明けようという頃である。会議が終わったとき、専務がケイスケの顔を見ながら、「俺はお前が嫌いだ。理由? 簡単だよ。組織というものになじまないからだ」
この一言でケイスケは左遷される運命となった。
翌朝、ケイスケは総務から呼び出され、
「一か月後、山形に転勤してくれ」と言われた。
ちょうど、ミユと深い仲になって一年後のことで、初めてミユのことを真剣に考えた。あれこれと考えているうちに、あまり知らなかったことに気づいた。
――ミユは横浜で生まれ育った。横浜の短大を出て、都内の薬局に勤めると同時に一人暮らしを始めた。その数年後に男と同棲した。半年後、男が突然失踪して、その借金を背負う羽目になり、水商売に手を染めるようになった。もともと身体が丈夫ではないため、ときどき身体を壊し、勤め先を変えた。彼女は男運が悪かった。その後も、ろくでもない男に何度か騙されたりして、ケイスケと出会った頃には、男にいかなる夢を持っていなかった。結婚することさえ諦めていた。――
転勤について、ミユに何も言えないまま、いたずらに時間が過ぎ、夏が来た。
旅立ちする前の日の昼下がり、ケイスケはミユのアパートを訪れた。彼女が暮らすアパートは築十年以上の古いアパートで、小さな川に沿う細い道に接していた。昼間でもめったに車が通らない寂れたところである。ミユの部屋は二階にあった。
ドアを開けると、チリン、チリンと風鈴の音がした。
窓が開けてある。窓の向こう側に夏の青い空があった。金属のような硬く混じり気のない青い空で、一片の雲もない。
部屋の片隅で、ミユが浴衣姿でいた。風船で遊んでいる。赤、青、白、黄、といろんな 色が混じった風船を手のひらで飛ばしている。
前にケイスケはミユに「一人でいるとき何をしている?」と聞いたことがあった。すると、「ぼっーとしているか、一人でゲームをしたりして遊んでいる」と答えたことがあったが、こんなことをしていたのかと思った。
ミユは振り向き微笑む。ケイスケもつられるように微笑む。
「その風船、どうした?」
「これ? 近くに祭りあって、面白そうだったから、買ってきたの」と風船を差し出した。
紫と白が混じった浴衣が着ていた。
浴衣を着ると、細い体がいっそう細く見える。
「浴衣も?」
「これは近くのスーパーよ」と笑った。
「綺麗だな」
「安いのよ」と微笑んだ。
ケイスケはミユを抱きせた。細くて折れそうな体をしているとあらためて思った。
「夏は好きか?」と聞いた。
「嫌いじゃない。そうね、どっちかといえば好き」
風鈴の音が気まぐれになる。
「いい音だな」とケイスケが言うと、
「きれいな音だよね」と応えた。
ケイスケや幼い頃を思い出した。遠い日の夏。母が買ってきた風鈴。添い寝をした夏。もう帰らない夏。……ケイスケは他人の前ではいつも強い人間を演じてきた。過去を振り返らず、いつも前に向かっていた。ひたすら仕事に打ち込む男を演じてきた。しかし、それは仮面でしかなかった。本当は弱虫で不器用で臆病な男だった。そんな素顔を誰も知らない。知っているのは母だけ。その母親はもういない。何もかも理解してくれた母。彼は恐れていた。一人の夜を。夜になり、眠るときを恐れた。母の夢をよく見たから。もう死んでいないはずなのに、夢の中では生きていた。微笑んでいる。夢から覚めると、死んでいることに気づき切なくなる。そんなことは誰にも言っていない。誰かに話をしたら、せっかく作ってきた自分のイメージが壊れると思ったから。ミユにも話をしていなかった。
「いい音だ」
風鈴の音を聞きながら、ミユの匂いを嗅いだ。石鹸の甘い匂いがした。
「風鈴は夏の音だと思わない?」とミユが言うと、
ケイスケはしみじみと、「そうだね。……いつの間にか夏になったんだな、ついこの間まで梅雨だったと思っていたのに」と言った。
「あっという間に時間は過ぎていく」とケイスケが続けて言うと、
「それだけ、年をとったのよ。年をとると時間が過ぎるのが早いというでしょ?」
「そうだな、まるで羽が生えているかのように過ぎる」
浴衣の中に手を入れ、小ぶりの乳房に触れた。ひんやりとした感触が伝わる。
ケイスケは「横鼻に帰らないのか?」と唐突に聞いた。
ミユは身体をケイスケに委ねながら「横浜に?」とけだるそうに聞いた。
「そうだよ」
ミユは「多分、帰らないと思う。もう私の居場所はないから」と寂しそうに微笑んだ。
「家には、お兄さんのお嫁さんもいるし……」
ミユは家を出たから十年近く、広い東京で根無し草のように生きている。ケイスケはそんなミユのことのことを思うと切ないほど愛おしさを感じ強く抱きしめた。洗い立ての髪からシャンプーのいい匂いがした。
ケイスケは「今度、山形に行くんだ」と思い切って言った。
「お仕事で?」
「そうだ」
「私も何年前かに行ったことがあるよ」
「聞いたことがある」
「一緒に行くか?」
「行きたいけど……」と言いかけ微笑んだ。それ以上は言わなかった。ミユが沈黙したときは、もう、それ以上話はしないでというサインだった。事情があるのだ。言えない特別な事情が。ふと、安堵している、もう一人の自分がいることにケイスケは気づいた。
「残念だ」と呟いた。
ケイスケは窓を開けて、空を眺めた。雲ひとつない青空が広がっていた。それは紛れもない夏の空である。
三年前の夏、東京から山に囲まれた内陸の山形市に来た。そのときも、同じような青空が広がっていた。東京から離れるとき、ケイスケは愛していたミユと別れた。夏が来る度に、そのことが苦い思い出となって蘇る。
ミユは浴衣が似合う細身でいい女だった。自分から進んで語らない控えめな女で、まるで軒下でひっそりと咲く花のようであった。いつも微笑んで迎えてくれる、心の根の優しい女であった。長い黒髪、長い眉、大きな目、面長の顔、細い体、細い手、細い足、その全てをケイスケは愛した。
三年前の春、会社で不祥事が起こり、社長が引率責任をとり辞めた。その後、専務が社長になり、大規模な組織改革が行われた。かつて社長を担いでいた者はことごとく左遷されるか降格させられた。
ケイスケは親しくしていたK部長と飲んだ。
「会社はどうなるんでしょう?」と聞いた。
「そんなの俺に聞くなよ。俺は勝ち馬に乗れなかった人間だ。昨日、内示が出たんだ。管理部へ行けと命じられた。何をすると思う? 毎日、毎日、伝票の整理だよ」と部長は笑った。その笑いが実に卑屈に歪んでいた。その笑みを見て、会社がどういうものかが、ケイスケは分かった。会社は階級社会である。出世するのは官軍、格下げは賊軍だ。賊軍は肩身の狭い思いで生きなければならない。出世するのももっともらしい理由がある。だが、あくまでそれは表向きことだ。本当は裏の世界で決まる。人間の欲とか人間関係とかいったものがどろどろと絡み合って決まる。K部長は会社の未来を背負う男と言われたが、専務からみれば、前社長を担いだ、単なる邪魔者に過ぎない。その結果、弾き飛ばされた。ケイスケはK部長に可愛がれた一人だった。部長の話を聞いて、いつか自分も弾き飛ばされる日が来ると不安になった。
ちょうど梅雨が明けようという頃である。会議が終わったとき、専務がケイスケの顔を見ながら、「俺はお前が嫌いだ。理由? 簡単だよ。組織というものになじまないからだ」
この一言でケイスケは左遷される運命となった。
翌朝、ケイスケは総務から呼び出され、
「一か月後、山形に転勤してくれ」と言われた。
ちょうど、ミユと深い仲になって一年後のことで、初めてミユのことを真剣に考えた。あれこれと考えているうちに、あまり知らなかったことに気づいた。
――ミユは横浜で生まれ育った。横浜の短大を出て、都内の薬局に勤めると同時に一人暮らしを始めた。その数年後に男と同棲した。半年後、男が突然失踪して、その借金を背負う羽目になり、水商売に手を染めるようになった。もともと身体が丈夫ではないため、ときどき身体を壊し、勤め先を変えた。彼女は男運が悪かった。その後も、ろくでもない男に何度か騙されたりして、ケイスケと出会った頃には、男にいかなる夢を持っていなかった。結婚することさえ諦めていた。――
転勤について、ミユに何も言えないまま、いたずらに時間が過ぎ、夏が来た。
旅立ちする前の日の昼下がり、ケイスケはミユのアパートを訪れた。彼女が暮らすアパートは築十年以上の古いアパートで、小さな川に沿う細い道に接していた。昼間でもめったに車が通らない寂れたところである。ミユの部屋は二階にあった。
ドアを開けると、チリン、チリンと風鈴の音がした。
窓が開けてある。窓の向こう側に夏の青い空があった。金属のような硬く混じり気のない青い空で、一片の雲もない。
部屋の片隅で、ミユが浴衣姿でいた。風船で遊んでいる。赤、青、白、黄、といろんな 色が混じった風船を手のひらで飛ばしている。
前にケイスケはミユに「一人でいるとき何をしている?」と聞いたことがあった。すると、「ぼっーとしているか、一人でゲームをしたりして遊んでいる」と答えたことがあったが、こんなことをしていたのかと思った。
ミユは振り向き微笑む。ケイスケもつられるように微笑む。
「その風船、どうした?」
「これ? 近くに祭りあって、面白そうだったから、買ってきたの」と風船を差し出した。
紫と白が混じった浴衣が着ていた。
浴衣を着ると、細い体がいっそう細く見える。
「浴衣も?」
「これは近くのスーパーよ」と笑った。
「綺麗だな」
「安いのよ」と微笑んだ。
ケイスケはミユを抱きせた。細くて折れそうな体をしているとあらためて思った。
「夏は好きか?」と聞いた。
「嫌いじゃない。そうね、どっちかといえば好き」
風鈴の音が気まぐれになる。
「いい音だな」とケイスケが言うと、
「きれいな音だよね」と応えた。
ケイスケや幼い頃を思い出した。遠い日の夏。母が買ってきた風鈴。添い寝をした夏。もう帰らない夏。……ケイスケは他人の前ではいつも強い人間を演じてきた。過去を振り返らず、いつも前に向かっていた。ひたすら仕事に打ち込む男を演じてきた。しかし、それは仮面でしかなかった。本当は弱虫で不器用で臆病な男だった。そんな素顔を誰も知らない。知っているのは母だけ。その母親はもういない。何もかも理解してくれた母。彼は恐れていた。一人の夜を。夜になり、眠るときを恐れた。母の夢をよく見たから。もう死んでいないはずなのに、夢の中では生きていた。微笑んでいる。夢から覚めると、死んでいることに気づき切なくなる。そんなことは誰にも言っていない。誰かに話をしたら、せっかく作ってきた自分のイメージが壊れると思ったから。ミユにも話をしていなかった。
「いい音だ」
風鈴の音を聞きながら、ミユの匂いを嗅いだ。石鹸の甘い匂いがした。
「風鈴は夏の音だと思わない?」とミユが言うと、
ケイスケはしみじみと、「そうだね。……いつの間にか夏になったんだな、ついこの間まで梅雨だったと思っていたのに」と言った。
「あっという間に時間は過ぎていく」とケイスケが続けて言うと、
「それだけ、年をとったのよ。年をとると時間が過ぎるのが早いというでしょ?」
「そうだな、まるで羽が生えているかのように過ぎる」
浴衣の中に手を入れ、小ぶりの乳房に触れた。ひんやりとした感触が伝わる。
ケイスケは「横鼻に帰らないのか?」と唐突に聞いた。
ミユは身体をケイスケに委ねながら「横浜に?」とけだるそうに聞いた。
「そうだよ」
ミユは「多分、帰らないと思う。もう私の居場所はないから」と寂しそうに微笑んだ。
「家には、お兄さんのお嫁さんもいるし……」
ミユは家を出たから十年近く、広い東京で根無し草のように生きている。ケイスケはそんなミユのことのことを思うと切ないほど愛おしさを感じ強く抱きしめた。洗い立ての髪からシャンプーのいい匂いがした。
ケイスケは「今度、山形に行くんだ」と思い切って言った。
「お仕事で?」
「そうだ」
「私も何年前かに行ったことがあるよ」
「聞いたことがある」
「一緒に行くか?」
「行きたいけど……」と言いかけ微笑んだ。それ以上は言わなかった。ミユが沈黙したときは、もう、それ以上話はしないでというサインだった。事情があるのだ。言えない特別な事情が。ふと、安堵している、もう一人の自分がいることにケイスケは気づいた。
「残念だ」と呟いた。