道
それから冬を二回ばかり体感するくらいに月日が経過した。季節はもう春ですね、なんてテレビ画面の向こうにいるアナウンサーが妙に耳につく話し方で言っていたが、随分適当なことを言うと思った。吐く息は白いし、寒冷が足元で滞っていてその中をもがくたび冷気が舞い上がる。外気に冷やされた体育館内はさしずめ冷蔵庫のようで、私は野菜室に転がっている野菜の気持ちを推し測っていると、唐突に名前を呼ばれて、私は慌てて返事をした。少し裏返ってしまって恥ずかしい。
「卒業しても頑張ってください」
卒業証書を決められた通りの動作で受け取っていると、校長はマイクにかからないくらいの小声でそう声をかけてきた。「はぁ」と間伸びた返事を返すのが精一杯だった。
席に戻るとさめざめと泣きすする音があちらこちらから上がっていた。泣き声交じりの「仰げば尊し」は保護者や教師達にも胸を打つものがあるのか、視線を横にずらすとハンカチで目元を押さえる大人達があった。私のクラスの担任の先生の姿もそこにあって、私はそこでようやく「ああ、もう卒業なのだ」と実感した。不意に身を襲った感覚に戸惑いながらもどうにか私は歌いこなす。これもまた決まりきった歌だった。
式典が終わり、私達卒業生は一旦教室に戻る。そこには涙を流しながら抱き合っている生徒や笑顔で写真を取る生徒達の活気に満ち溢れていた。先生が教室に入ってくると、一同は浮つきながら席に着く。私もそれにならい緩慢に着席すると、瞬間年月の染み込んだ木の臭いが鼻腔をかすめた。それは一年間ともにした机の芳香だった。
最後のホームルーム。先生は涙を目尻に溜め、声をかすらせて、私達のクラスの出来事の数々を振り返った。その声に再び生徒達は鼻を鳴らす。先生は締めくくりにクラスメイトひとりひとりにメッセージを送った。私の番になった時、担任もやはり「頑張れよ」と私に声をかけた。
担任が教室を出ていよいよ教室の中が賑やかになった。先ほどまで泣いていた生徒もけろっと笑顔に戻って、クラス全員で行く食事会の話に混ざっている。「もちろん行くよね?」と友達に聞かれて、私は少し逡巡してから「後から行く」と言った。友人は訝しんでいたが、それ以上は言及せず「待ってる」とだけ言ってくれた。
生徒達が散り散りになって、その足で私は半ば郷愁の思いで最上階に向かった。階段を踏みしめるたびに懐かしさに暮れた。屋上に行くのはいつぶりだろう。振り返ると思いのほか以前のことで、愕然となった。――あの山を登ると決めた時以来だった。
さび付いた音を軋ませて重い扉を開放すると先に晴れ渡った空が見えて、歩を進ませるごとに少しずつ例の山が横たわっているのが見えてきた。フェンスぎりぎりの間近で私は立ち止まる。何度か稜線を右から左へとなぞらせてようやく視線を一点に集中させた。そうして風景の変化した部分を馴染ませようとする。
卒業式間際なって、私は一時期相反した思いで眺めた高速道路は完成したことを知った。私がそれを眺めるのをやめて少し経った後、工事は再開されたらしい。完成の一報はあちこちから風聞していたので知っていたが、こうしてまじまじと見るのは本当に久しぶりだった。いや、きちんと見ることなどなかったのかもしれない。中途の道路を思い返そうとするとあの歌声が頭の中で再生された。彼女は今何をしているのだろう。中途の道を前にして何を考えていたのだろう。それはあまりにも愚問だった。
すっかり出来上がってしまった山峡を貫くそれを見て、私の心は驚くほど落ち着いていた。冷静というよりもむしろ諦念というべき沈着だった。
完成しつながってしまうと淡く抱いていた期待や飛躍も消し飛んで、私の前にはつまらぬ経過だけが残っている。
「大丈夫ですよ」
いつかどこかで言った言葉とともに吐いた息は、上昇して上空に雲のように拡散していく。私は山を目いっぱい目に焼き付けてから、クラスメイトの待つ会場に向かうため、背を向けて、二度と振り返らなかった。
私は規定された未来を歩いていく。きっとそれは安穏としていて退屈な道程だろう。