道
道
この道は前途だ。
私は屋上に立ち、太陽が沈むのと対岸にある、山脈を貫こうと睥睨する無骨なコンクリートの塊を視野に捉えて、そんなことを考える。
ごく自然に零れ出た自分の言葉に、一度すぅっと息を吸いこんで整理を試みる。肺に充満していく、冷気。いつのまに外気は季節の変遷を告げていて、私の胸をせかすように駆け足で冷たい空気を運んできた。
一瞬吹き荒れる風はフェンスの合間を縫って、肩口ではねた焦げ茶の髪を弄び、寒さで少し赤らめた頬を撫ぜる。ジリジリとした鈍い痛覚が露出した肌にいつまでも残った。
視線の先には見飽きるほどに眺めた、緩やかな尾根が続いている。早くも落葉し始めた山々の模様は鮮やかとは言いがたい、深まりすぎた緑とぼけた茶褐色のコントラストで染められている。どこにでもあるような山。高くも低くもなく、名が売れるような観光要素を何一つ持ち合わせていない、どこまでも普遍的な山。私が小さな頃、遠足で立冬間際に登山を敢行したことがあったが、その時の山頂からの光景を何一つ覚えていない。そして目の前に広がる自然の隆起物の名をとうの昔に私は失念してしまった。
その凡々たる山を切り崩し貫き通そうとしているのは、およそ有用な公共資金の使い道とは思えぬ高速道路の断片だ。山峡にひょいっとその断面を覗かせ、対岸の山を前にその人工物はここ数ヶ月の間、どれほども伸長していない。山間のちょうど中間辺りではたと工事は中断され、現在の状況を維持したまま、計画は頓挫してしまったようだ。詳細は知らないが、政界の混乱や乗じて息巻く近隣住民の猛烈な反対が巻き上がり、計画半ばであって現状に保持されてしまったのだろうと、つまらぬマスメディアが提供する情報と私の下らぬ憶測をもって判断するに容易だった。
残されたその道路を支える支柱はここから肉眼でもくっきりと把握できるほどに太く寸胴なはずなのに、行く先のないその道路を支えるにあまりに頼りなく映った。
放置された高速道路。それは私がこの屋上に上り始めた頃にはすでにその状態だったから、中絶された正確な日付を把握していない。もしも私が放置される以前のそれを前より知っていたのなら、私は今ほどにその、山中に放棄された巨大なコンクリートに憧憬をもって焦がれる思いを抱くことはなかったであろうと自負している。
この道は前途だ。
再びその言葉を頭の中で反芻した。ふと沸いて零れた言葉であったが、そう思わずに入られなかった自身の心境を鑑みれば、あまりに適当な言葉だったのだと思う。
晩秋の風に煽られて、にわかに湧き上がる、空虚。
大空を深い朱色に染め上げる夕日は今にもあの山の向こうに沈みそうで、私はそれを見送るともなくいつまでも立ち尽くしていた。
酷くざわめいた心のまま、私は待っていたのかもしれない。慣性のままに目を閉じて、耳を澄ます。瞼の向こうに濃厚な朱の色彩がぼんやり透き通った。
校内外から弾む活気。運動部の不揃いな掛け声や、帰宅する生徒のせせら笑う声、調子はずれの管楽器の音色。そんな溢れる喚声を一擲する声が屋上まで浮上する。雑多な音に混じってそれは何物も寄せ付けない力強さと空虚ににじむような透明な歌声だった。
ざわり、と校庭を取り囲む木々が揺れた。
こうして放課後まで居残っていると、黄昏時に斜陽の色と合わせて彼女の歌声が胸に浸透していった。これは既に繰り返された私の日常の一部になりつつあるのに、くどくなるほどに繰り返された単調なメロディなはずなのに、彼女の凛とした力強い歌声が秋冷の射さす風に乗って私の耳に触れるたび、慄然とした。そうして少しでも彼女の音が外に零れるたびに、私の周囲に溢れる雑音は彼女の音だけを残して消失してしまったかのように彼女の歌声に支配されていく。
私はこの声の主を知らない。この歌声の主もきっと屋上に這い登って寒空の下で自分の歌を聴いている奇特な人間を想定して歌っているとは思えない。私の耳は彼女の歌声を既知として認識しているが、私はだからこそ彼女自身に自分の存在を知られたくなかった。羞恥などという陳腐な理由でそう思ったのではなく、彼女の視点に私という人間を捉えて欲しくなかった。その理由を考えあぐねているうちに胸に集積するのはひどく模糊としたものだった。
私は息苦しさに耐えかねて、瞼を開いた。濃厚な斜陽は既にその身を半分以上山に埋めている。
夕暮れに染まる空と、断絶された道路と、突き刺す歌声。私はそれらを皮膚に染み込ませて、吸収しているうちに何かが心を揺り動かす衝動を覚えた。衝動は小刻みに蠕動し、私を急かす。そしてそれは「晴れた日にいつか山を登ろう」というなんとも漠然とした予測に収束していた。
*
週末、呆れるくらいに澄み切った秋晴れに半ば嘆息をついて、私は今あの山にいる。吹き降ろす秋冷は、軽装で無謀にも登山を敢行しようとする私の愚行を諌めるように衣服の合間を縫って突き刺す。柔らかな陽光は落葉する枝葉の間から零れ落ちるようにして山道に木々の影を千切れちぎれに落としている。まだらに紅葉しかけた季節の彩りはなんとも荒涼としていて、人幅わずか二人分ほどの山道各所に設置された案内板は諸所腐りかかっていて書かれた字が読めなくなっていた。歩き始めてまだあまり経っていないが、弾む息に吐き出されるように疲労が蓄積していく。徐々に視線は俯き、気分は後退していく。ただでさえこの登山の明確な目的を持たない私は次第に後悔が汗とともにじんわりと滲んだ。
歩くたびにカラカラと背負ったリュックの中で音が鳴った。高校生になった私が背負うには子供っぽい、蛍光色のリュックサックは朝クローゼットを漁って出てきた代物で、もうだいぶ前に使わなくなったものだった。最後に使ったのは確かここを登山したときだった気がする。記憶の中のリュックとはすっかり様相を異にし、色褪せくたびれてしまっているが、不意に出てきたこれを見た瞬間私は無意識に手を伸ばしていて、おにぎりだけを詰めた簡素なお弁当を放り込み、山に向かっていた。
以前小学生の頃に一度この山に遠足に来たとき、果たして現在の私の感性と異なっていたに違いない。見える景色の高さが違うという身体的な変化もそうだが、なにより現在の私と過去の私の心の拠る在所が異なっている。成長するとは何か。むしろ私の行く先は幼少時よりも遥か遠方に霞がかっている。迫り来る現実が濃霧のように前途を曇らせている。
一時間と少し経過したあたりで、私は足を止める。目の前には屋上で眺めていたあの高速道路が頭上に延びている。その袂にやってきてみると、その道路は存外大きな建造物であると改めて認識する。
上空を見上げると断絶された道の切れ先から淡くぼけた青空が顔を覗かせていた。私は虚空を仰ぎ見て、そうして視界に映りこむ中絶された道に視線をなぞらせた。進退窮まったそれは妙に私の心を不安定にさせる。今夏に初めてそれを認知してから、なるべく視線に入れまいと努めてきたのに、今、私はその高速道路の真下に来てしまっている。気まぐれにしてはあまりに軽率で、意図があるならばそれはあまりに不明瞭だった。
この道は前途だ。
私は屋上に立ち、太陽が沈むのと対岸にある、山脈を貫こうと睥睨する無骨なコンクリートの塊を視野に捉えて、そんなことを考える。
ごく自然に零れ出た自分の言葉に、一度すぅっと息を吸いこんで整理を試みる。肺に充満していく、冷気。いつのまに外気は季節の変遷を告げていて、私の胸をせかすように駆け足で冷たい空気を運んできた。
一瞬吹き荒れる風はフェンスの合間を縫って、肩口ではねた焦げ茶の髪を弄び、寒さで少し赤らめた頬を撫ぜる。ジリジリとした鈍い痛覚が露出した肌にいつまでも残った。
視線の先には見飽きるほどに眺めた、緩やかな尾根が続いている。早くも落葉し始めた山々の模様は鮮やかとは言いがたい、深まりすぎた緑とぼけた茶褐色のコントラストで染められている。どこにでもあるような山。高くも低くもなく、名が売れるような観光要素を何一つ持ち合わせていない、どこまでも普遍的な山。私が小さな頃、遠足で立冬間際に登山を敢行したことがあったが、その時の山頂からの光景を何一つ覚えていない。そして目の前に広がる自然の隆起物の名をとうの昔に私は失念してしまった。
その凡々たる山を切り崩し貫き通そうとしているのは、およそ有用な公共資金の使い道とは思えぬ高速道路の断片だ。山峡にひょいっとその断面を覗かせ、対岸の山を前にその人工物はここ数ヶ月の間、どれほども伸長していない。山間のちょうど中間辺りではたと工事は中断され、現在の状況を維持したまま、計画は頓挫してしまったようだ。詳細は知らないが、政界の混乱や乗じて息巻く近隣住民の猛烈な反対が巻き上がり、計画半ばであって現状に保持されてしまったのだろうと、つまらぬマスメディアが提供する情報と私の下らぬ憶測をもって判断するに容易だった。
残されたその道路を支える支柱はここから肉眼でもくっきりと把握できるほどに太く寸胴なはずなのに、行く先のないその道路を支えるにあまりに頼りなく映った。
放置された高速道路。それは私がこの屋上に上り始めた頃にはすでにその状態だったから、中絶された正確な日付を把握していない。もしも私が放置される以前のそれを前より知っていたのなら、私は今ほどにその、山中に放棄された巨大なコンクリートに憧憬をもって焦がれる思いを抱くことはなかったであろうと自負している。
この道は前途だ。
再びその言葉を頭の中で反芻した。ふと沸いて零れた言葉であったが、そう思わずに入られなかった自身の心境を鑑みれば、あまりに適当な言葉だったのだと思う。
晩秋の風に煽られて、にわかに湧き上がる、空虚。
大空を深い朱色に染め上げる夕日は今にもあの山の向こうに沈みそうで、私はそれを見送るともなくいつまでも立ち尽くしていた。
酷くざわめいた心のまま、私は待っていたのかもしれない。慣性のままに目を閉じて、耳を澄ます。瞼の向こうに濃厚な朱の色彩がぼんやり透き通った。
校内外から弾む活気。運動部の不揃いな掛け声や、帰宅する生徒のせせら笑う声、調子はずれの管楽器の音色。そんな溢れる喚声を一擲する声が屋上まで浮上する。雑多な音に混じってそれは何物も寄せ付けない力強さと空虚ににじむような透明な歌声だった。
ざわり、と校庭を取り囲む木々が揺れた。
こうして放課後まで居残っていると、黄昏時に斜陽の色と合わせて彼女の歌声が胸に浸透していった。これは既に繰り返された私の日常の一部になりつつあるのに、くどくなるほどに繰り返された単調なメロディなはずなのに、彼女の凛とした力強い歌声が秋冷の射さす風に乗って私の耳に触れるたび、慄然とした。そうして少しでも彼女の音が外に零れるたびに、私の周囲に溢れる雑音は彼女の音だけを残して消失してしまったかのように彼女の歌声に支配されていく。
私はこの声の主を知らない。この歌声の主もきっと屋上に這い登って寒空の下で自分の歌を聴いている奇特な人間を想定して歌っているとは思えない。私の耳は彼女の歌声を既知として認識しているが、私はだからこそ彼女自身に自分の存在を知られたくなかった。羞恥などという陳腐な理由でそう思ったのではなく、彼女の視点に私という人間を捉えて欲しくなかった。その理由を考えあぐねているうちに胸に集積するのはひどく模糊としたものだった。
私は息苦しさに耐えかねて、瞼を開いた。濃厚な斜陽は既にその身を半分以上山に埋めている。
夕暮れに染まる空と、断絶された道路と、突き刺す歌声。私はそれらを皮膚に染み込ませて、吸収しているうちに何かが心を揺り動かす衝動を覚えた。衝動は小刻みに蠕動し、私を急かす。そしてそれは「晴れた日にいつか山を登ろう」というなんとも漠然とした予測に収束していた。
*
週末、呆れるくらいに澄み切った秋晴れに半ば嘆息をついて、私は今あの山にいる。吹き降ろす秋冷は、軽装で無謀にも登山を敢行しようとする私の愚行を諌めるように衣服の合間を縫って突き刺す。柔らかな陽光は落葉する枝葉の間から零れ落ちるようにして山道に木々の影を千切れちぎれに落としている。まだらに紅葉しかけた季節の彩りはなんとも荒涼としていて、人幅わずか二人分ほどの山道各所に設置された案内板は諸所腐りかかっていて書かれた字が読めなくなっていた。歩き始めてまだあまり経っていないが、弾む息に吐き出されるように疲労が蓄積していく。徐々に視線は俯き、気分は後退していく。ただでさえこの登山の明確な目的を持たない私は次第に後悔が汗とともにじんわりと滲んだ。
歩くたびにカラカラと背負ったリュックの中で音が鳴った。高校生になった私が背負うには子供っぽい、蛍光色のリュックサックは朝クローゼットを漁って出てきた代物で、もうだいぶ前に使わなくなったものだった。最後に使ったのは確かここを登山したときだった気がする。記憶の中のリュックとはすっかり様相を異にし、色褪せくたびれてしまっているが、不意に出てきたこれを見た瞬間私は無意識に手を伸ばしていて、おにぎりだけを詰めた簡素なお弁当を放り込み、山に向かっていた。
以前小学生の頃に一度この山に遠足に来たとき、果たして現在の私の感性と異なっていたに違いない。見える景色の高さが違うという身体的な変化もそうだが、なにより現在の私と過去の私の心の拠る在所が異なっている。成長するとは何か。むしろ私の行く先は幼少時よりも遥か遠方に霞がかっている。迫り来る現実が濃霧のように前途を曇らせている。
一時間と少し経過したあたりで、私は足を止める。目の前には屋上で眺めていたあの高速道路が頭上に延びている。その袂にやってきてみると、その道路は存外大きな建造物であると改めて認識する。
上空を見上げると断絶された道の切れ先から淡くぼけた青空が顔を覗かせていた。私は虚空を仰ぎ見て、そうして視界に映りこむ中絶された道に視線をなぞらせた。進退窮まったそれは妙に私の心を不安定にさせる。今夏に初めてそれを認知してから、なるべく視線に入れまいと努めてきたのに、今、私はその高速道路の真下に来てしまっている。気まぐれにしてはあまりに軽率で、意図があるならばそれはあまりに不明瞭だった。