あやかしの棲む家
「っ!? ほかにも封印の解かれていた部屋があったというの!」
声を荒げた静枝は、はっとして黙した。隣の部屋にまで声が届いてしまう。
菊乃は隣の部屋に視線を向けた。
「現在静枝様がお使いになっております当主の部屋は、代々の当主の部屋でもございました。あの部屋にもかつて鬼が封じされておりました。しかし、あるとき、封印が解かれ、忽然と部屋の中から鬼が消えてしまったのです。それ以来、鬼の行方は杳[よう]として知れません」
すべては語らなかった。
当主の部屋の封印を解いたのは、翁面の老人。今、隣の部屋にいる慶子だ。
静枝は知らない。
「もう一度、見回ってきて頂戴。そして、何事もなければ様子を見ることにしましょう。娘たちと慶子を一緒に行動させ、瑶子をつけましょう。私には菊乃がついていて」
「畏まりました」
菊乃は意見しなかった。
もし今回の封印を解いた者が慶子だとしたら、次になにをする気か。慶子、瑶子もまた慶子が仕向けた者、娘たちと共にして危険は及ばないだろうか。
菊乃が自ら不安を口にすることはなかった。
静かに瞳を閉じて静枝が口を開く。
「ねえ、娘二人をこの屋敷から外の世界へ……お願いできないかしら?」
二人。
慶子との約束では、美花と決まっている。
「畏まりました。準備をいたします」
菊乃はそう返事をした。
薪や藁に灯油をまいて火をつけた。
一瞬にして高く燃え上がる炎が、ゆらゆらと菊乃の瞳に映る。
薪と藁の隙間から、人の手らしきものが出ていた。
すぐに菊乃は当主の部屋に向かった。
そこで待っていたのは三人。静枝、美咲、美花。姉妹には直前に聞かせてあった、この屋敷を出ることを。
静枝はこの屋敷に残る。
母に背を向け部屋を出る。美咲は振り返ろうともせず、別れの挨拶もしなかった。美花は振り返った。
「お母様」
涙ぐんでいる美花。母はなにも答えず、なにも表情に浮かべず。
「急ぎましょう」
菊乃が二人を急かした。
玄関まで行かず、締め切られていた縁側の雨戸を開けて、外へ出た。
なぜ急ぐのか。時間に追われているのか、それとも別のモノに追われているのか、後ろからはなにが迫ってくる?
車庫までやって来た三人を待っていたのは、おぞましい群れだった。
「きゃっ!」
息を呑んで美花が短い悲鳴をあげた。
「なんなのあれ?」
侮蔑しながら美咲が言葉を吐き捨てた。
子蜘蛛の群れが行く手を塞いでいたのだ。子蜘蛛と言えど、それは大蜘蛛に比較しての大きさ、その大きさは人の顔ほどはある。それが何十という群れを成しているのだ。
車は使えない。里まで幼い二人を連れて行くことはできるのか。
菊乃は二人の手を引いて走った。
だが、行く手に現われた新たな蜘蛛の群れ。車庫に群がっていた蜘蛛よりもさらに大きな蜘蛛たちだ。
群れの中から大蜘蛛が一匹顔を見せた。
一斉に糸が宙に飛んだ。
菊乃は姉妹を抱き寄せようとしたが、間に合わなかった。
「美咲様!」
蜘蛛たちの狙いははじめから一人。糸に巻かれ動きを封じられた美咲。大蜘蛛たちの糸は、通常の蜘蛛と比べものにならない強度を持つ。火には弱いが、この場で美咲を開放する術はなかった。
一斉に蜘蛛たちが道を開ける。言わんとしていることはわかった。美花だけを連れて行けというのだ。
菊乃は動かなかった。
「わたくしの主人はあなた方ではございません。わたくしの主人はお二人を外の世界へとのご命令でございます」
警告だと、慶子は言っていた。その約束を破棄するのか?
たとえ菊乃はそうしようとしても、それを許さない力がある。
蜘蛛の群れが蠢く。子蜘蛛たちの背に乗って人影が運ばれてくる。静枝だ、静枝が捕らえられたのだ。
「私のことは構わないから、娘たちを連れて逃げなさい!」
絶叫に近い叫び声を静枝はあげた。
目の前にある選択肢を選ぶという行為。
「申しわけございません」
菊乃は仕える主人の命に背いた。美花だけを連れて走り出したのだ。
蜘蛛の群れの中から狂気に駆られた悲鳴が木霊した。
決して菊乃は振り返らない。道は開いている。たとえその道が誘われた一本道だとしても、進むことを躊躇[ためら]わなかった。
正面門を飛び出して、ついに屋敷の敷地の外へ出たとき、菊乃は地面にある物が落ちていることに気づいた。
しかし、なにも見なかったことにした。
――そこに落ちていたのは、翁面だった。
作品名:あやかしの棲む家 作家名:秋月あきら(秋月瑛)