あやかしの棲む家
頭を食われても悪鬼は足をばたつかせ、死ぬことはなかった。初めから死んでいるのだから、死ぬことはないのだ。
克哉は辺りを見回した。目に入ったのは御札で封じられた部屋の戸だ。
「大蜘蛛よ、言葉がわかるなら従え! その戸を俺が開けたらすぐにそいつを押し込めろ。本当にすぐだぞ、一刹那も余裕はないからな!」
すぐさま克哉は封じられた戸に駆け寄り、御札を剥がすと勢いよく戸を開けた。
逆風だ。
部屋から強い風が吹いてくる。
大蜘蛛が前脚を器用に使って簀巻きの悪鬼を部屋の中に放り投げた。
目の前を悪鬼が通り過ぎるとほぼ同時に克哉は戸を閉める。
がっ!
なにかが戸に引っかかった。
鷲のような鋭い爪を生やした痩せこけたひとのような手。
「別の奴が邪魔しやがって!」
元から部屋にいた悪鬼が外に出ようとしてきたのだ。
刃が煌めいた。
次の瞬間、戸が閉められ、すぐに克哉は御札を張り直した。そして、床に落ちた悪鬼の手首を見てから、それを切り落とした者に眼を向けた。
「大丈夫か菊乃?」
「克哉様たちをお守りするのがわたくしの役目なのに、無くした頭部を探すのに翻弄されて、なにも……」
「落ち込むことはない。最後の決め手は菊乃だ。もしも奴らが二人も出てきたら……考えただけで恐ろしい。体を直すのは少し待ってくれないか、屋根裏で待っていてくれ、先に娘たちを探してくる」
「克哉様の手当も早くしなければ、さらに酷くなります」
「俺は平気だ、少し肩を噛まれただけだ」
克哉は怪我の手当。菊乃は怪我を手当するのではなく、直すのだ。
そこに立っていた菊乃の姿は異様だった。自らの頭部をわきに抱えて会話をしているのだ。菊乃もひとではなかった。
そして、そこに佇んでいるモノも。
「そこにいる大蜘蛛は?」
菊乃が尋ねた。
「瑶子だ。見てわかるとおり、俺たちに敵意はないようだし、危害を加えるつもりもないらしい。意思疎通ができるかわからないが、どこかに隠れるように言っておいてくれ。俺は娘たちが心配だ」
急いで駆けていく克哉の後ろ姿を見つめる菊乃。
「大蜘蛛と二人きりにされても困ります」
ベッドに横たわる克哉の姿。
まるで老衰。だが、顔はよく見ると若い。痩せこけた頬、目の下には隈、乾いた唇は割れてしまっている。
ベッドの周りには囲むように、双子の娘たち、瑶子、菊乃が寄り添っていた。
克哉が嗄れた声を発する。
「菊乃だけ残って、三人は席を外してくれないか……ゲフッ」
少ししゃべっただけ、よからぬ咳が出る。
後ろ髪を引かれる思いの娘たちが、瑶子に連れられて屋根裏部屋を去っていく。
残された菊乃は克哉を見つめながら、無機質でありながら、悲しげな表情を浮かべているようだった。
「克哉様……わたくしも涙を流せればよかったのに」
「その逆で菊乃に泣かれなくてよかった。全員に泣かれたら、死ぬ方も後味が悪いからな」
「死ぬなんてとんでもありません!」
「いや、俺は死ぬ。どうせ遅かれ早かれひとは死ぬんだ……すまないと思ってる」
「なにをでしょうか?」
「菊乃だけを残して逝くことを……俺だけじゃない。これから先も、俺の子孫たちは菊乃を残して逝くことになるだろう。多くのものを背負わせてしまって、すまないと思っている」
衰弱した顔は沈痛な表情を浮かべることで、より深い影を落としてさらに死人に近づけた。
菊乃は枯れた克哉の手を優しく握った。
「わたくしは克哉様のお側にお遣いできて幸せでした」
「その好意につけ込んだ俺は本当に罪深い。記憶はいつから戻っていた?」
「…………」
押し黙った菊乃。
「隠さなくていい、生まれ変わる前の記憶はすでにあるんだろう?」
「記憶は少しずつ取り戻していました。完全に思い出したのは、克哉様がこうなってしまった原因をつくったあのとき。克哉様と瑶子が鬼と争っているとき、わたくしは首を無くして動揺しておりました。克哉様の元に駆けつけるのが遅れたのも、それが原因でございます。わたくしがもっとしっかりとしていれば、克哉様が傷を負い、こんな結果には……」
「ならなかったとも限らない。それはわからないことだ、自分を責めるな」
「…………」
責めるなと言われても、無言の菊乃はうつむいたままだ。
涙は流せない。
しかし、菊乃のまぶたは涙を流すように震えていた。
「底知れない恐怖でわたくしは動けなかったのです。鬼に首を落とされた瞬間、あのときのことが……」
「それは思い出さなくてもいいことだ。それだけは思い出して欲しくなかった」
「新しい奉公先のご主人様に手籠めにされた挙句、ほかの男たちにも……ああ、鮮明に覚えています。ついに気が狂れたわたくしは男のそれを噛みきってやったのです。そして仲間の男が刀を抜きました」
「それ以上は話さなくていい」
「…………」
菊乃は震えながら押し黙った。
再び菊乃は克哉の手を握り直した。
「わたくしを生き返らせてくれたことを感謝しております。克哉様のこともわたくしが――」
「それは無理だ」
「無理などとおっしゃらないで!」
「それができればすでに頼んでいるよ。だが無理なんだ。菊乃のを蘇らせたのは、本物の鬼の技術と道具だ。反魂[はんごん]に必要な道具や義体は、菊乃を蘇らせるのにもう全部使い切ってしまった」
「本物の鬼とは? わたくしがまた死ねば、克哉様にこの躰を渡せるのではないですか?」
「菊乃が死んだら、だれが俺を蘇らせる? 娘たちや瑶子では絶対に無理だろう。本物の鬼とはなにか、妻との出逢いの話はまだ聞かせてなかったな。妻は正真正銘の本物の鬼だった。名は――るりあと言う」
作品名:あやかしの棲む家 作家名:秋月あきら(秋月瑛)