あやかしの棲む家
布団が大きく跳ね飛ばされ、黒髪を乱しながら少女が静枝に襲い掛かった。
「痺れを切らせて、いつか来ると思っていたわお母様」
その口調。
「美花ではないわね!」
少女は妖しく微笑んだ。
「私は美咲よ」
美咲は静枝に馬乗りになり、肉切り包丁が持たれた手首を床に押さえつける。
そして、自らも隠し持っていた包丁で静枝の首を突こうとした。
「殺さないで……愛しい愛しい美咲、母を殺さないで」
涙ぐむ静枝。
だが、美咲は容赦ない冷たい瞳をしていた。
「どこに母なんているのかしら?」
「やめて美咲!」
切っ先がのどに触れた瞬間、部屋に美花が飛び込んできた。
「やめて!」
響く美花の嘆き。
美咲の動きが止まり、その隙を突いて静枝は美咲の躰を押し飛ばした。
足を引きずり這って逃げようとする静枝。
体勢を直した美咲が静枝の背中に包丁を突き立てた。
「ギャァアアアッ!」
包丁で刺されながら静枝は鋭い爪で美咲を振り払った。
美咲の頬に奔った血筋。
重傷を負いながらも静枝は立ち上がり、鮮血を乱しながら逃走した。
すぐに美咲は後を追おうとする。
「逃げられたわ、止めを刺してやる!」
「嫌よお姉さま! そんなことをしてはいけない!」
「どうして! あの女は美花を殺そうとしたのよ、それでも庇うの!」
「わからない、わからないけど、お姉さまにそんな真似をさせられない!」
「だったら美花が手を下すの?」
「っ!」
美花は息を呑んで固まった。
そんな美花を美咲は構わずに、蝋燭を用意すると仄暗い廊下を歩きはじめた。
血の道しるべが示す先。
それは静枝の部屋へと続いていた。
血塗られた襖の引き手。
美咲は襖を力強く開き部屋の中を見た。
部屋の中心に敷かれた布団の上で正座する静枝の姿。あまりに静かな面持ちが不気味だった。
「殺しなさい」
と、顔を上げた静枝は静かに言った。
警戒心を強めながら美咲は摺り足で静枝に近付いた。
一歩、一歩と二人の距離が縮まる。
静枝の形相が刹那に変わった。
「死ねーっ!」
般若の形相をして静枝が肉切り包丁を振るった。
咄嗟に庇って出した美咲の手のひらが血を噴いた。
怯んだ美咲の腹を刺そうと肉切り包丁が鈍く光った。
部屋に飛び込んできた美花。
「お姉さま!」
美花はそのまま美咲を肩で突き飛ばした。
肉切り包丁が柔肉を裂く。
畳に倒れた美咲が叫ぶ。
「美花!」
同じく床に倒れていた美花が手にしていたのは、美咲が落とした包丁。
肉を裂かれたのは静枝だった。
包丁を伝わって美作の手を彩る紅い息吹。
よろめいた静枝は後退り包丁を腹から抜き、そのまま畳の上に倒れた。
風もないのに、鏡台に掛かっていた布が落ちた。
眼を見開く静枝。
鏡に映った女の顔。
「嫌っ、嫌よ、こっちを見ないで静香、静香、しずかぁぁあッ!」
鏡に映った顔は一つ。
己自身の顔にほかならない。
美花は眼を剥いたまま震えて動けずにいる。
狂い躍る静枝が肉切り包丁を持って美花に襲い掛かる。
美咲が微笑んだ。その口の端から溢れた紅い命。
同時に二人が倒れた――美花の目の前で。
そう、美咲は美花を庇ったのだ。その腹は背に達するまでの傷を負っていた。
全身を紅く化粧した静枝も立つ気力も残されていなかった。
美咲は美花にもたれ掛かった。
そして、耳元で囁いた。
「どうせ死ぬのなら、美花に喰らって欲しい。この血肉は美花の物よ」
「お姉……さま」
眼を開いたまま美咲は事切れた。
「いやぁぁぁぁああっ!」
叫び声をあげたのは美花ではなかった。
――静枝。
鏡を見ながら静枝は泣いていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい?静枝?。でもこれでやっと……」
鏡に映る顔は一つ。
その顔は誰のものか?
呆然とする美花の手を大きな手が握った。
「すまない出るのが遅くなっちまった」
沈痛な表情をした無精髭の男――克哉は美花の手を引き、美咲の亡骸を背負って走り出した。
化けの皮が剥がれた幽鬼が絶叫する。
「逃がさぬぞ!」
叫んだ首は床に転がった。
傍らに立っていたのは斧を持った菊乃の姿。
「申しわけございません……さま」
菊乃は火のついた蝋燭を布団に向かって投げた。
遠く庭先から振り返った屋敷から煙が上がっていた。
やがて屋敷は紅蓮に包まれるだろう。
美花は地面に膝を付いて泣きじゃくっていた。
「お姉さま……お姉さまが……」
「すまない、俺がもっと早く出てれば」
美咲の亡骸を背負う克哉は苦しげに言葉を吐いた。
そして、克哉は夜空の星を見つめた。
「親父が交わした約束、半分しか果たせなかった。本当にすまなかった、もっと早く迎えに来ればよかったんだ」
涙を流しながら美花は克哉を見つめた。言葉は出なかった。
克哉が語り出す。
「数年前、俺の親父はある女性と手紙でやり取りしてたんだ。それであるとき、その女性から自分に双子が生まれたら、その子供を預かって欲しいと頼まれていたらしい。けど、まあその子供は結局うちに来ることはなかったんだ」
驚いた瞳をした美花。
「親父は数年前に死んだ。それで息子の俺がその後どうなったのかと思って、こうしてやって来たわけなんだが……」
結果は……。
克哉は懐などを手で探って潰れた煙草の箱を取り出した。
「そういや切らしてるんだった。煙草でも吸わねぇとやってらんねぇってのにな……?」
少し驚いた克哉は自分の傍らに角の生えた少女が立っているのに気づいた。
るりあは無言で何かを克哉に押しつけた。克哉がそれを受け取ると、るりあは走って姿を消してしまった。
煙草の箱。
克哉が受け取ったのは煙草の箱だった。しかも、もう片手で握りつぶされているのと同じ銘柄だったのだ。
「なんで……?」
疑問に思いながら克哉は箱の中を見た。
残されていた最後の一本。
克哉はそれを口にくわえて火と点けようとしたが、つかない。
「湿気ってやがる」
それでもその煙草を捨てることなく、口に咥えてまま手を美花に伸ばした。
「行こう、お嬢ちゃんの面倒は俺が見る。嫌なら別にいいんだが、とにかく俺の住んでる町まで行こう」
見知らぬ男にも等しい克哉。
美花は克哉の手を取った。温かい手だった。
いつしか止まっていた美花の涙。
崩れゆく箱庭の世界を背に、手を繋いだ二人は歩き出したのだった。
作品名:あやかしの棲む家 作家名:秋月あきら(秋月瑛)