あやかしの棲む家
4
夜は更けて、草木も眠りはじめた頃、克哉は再び活動をはじめた。
廊下の覗き穴の近くを入念に探す。
もしかしたらここにあるかもしれないという勘が的中した。
天井の板が動いたのだ。
開いた入り口に手を掛けてぶら下がった。床との距離はさほどないが音を立てないように慎重に。床に落ちたと同時に屈伸して衝撃を和らげた。
どうにか廊下に出た克哉は天井を見上げた。
入り口が開いたままだ。
下りるのは容易だったが閉めるのは一苦労だ。
何度か飛び跳ねながら板を元に戻す。棒かなにかあれば楽だっただろう。
板を戻し終えた頃には息が切れた。
美花と静枝が寝ていることは穴を覗いて確認済みだ。おそらくほかの者も寝てるとは思うが、用心には用心を重ねて慎重に行動しなくてはならない。
克哉は迷っていた。
いつ屋根裏から脱出できたのだ。
このまま捜索を続けるのか?
それとも屋敷から逃げてしまおうか?
心が揺れ動く。
とりあえず懐から蝋燭を出し、ベルトに挟んであった蝋燭台に乗せて火と点けた。
さらに手帳とペンを取り出した。
部屋の見取り図を描きはじめた克哉。まだ調べる気なのだ。
注意しなくてはいけないのは赤い札のある部屋だ。
廊下を歩きながらしばらくして、なにやら気配がした。
蝋燭をすぐに消して、静かに息を潜める。
何も見えない闇だ。
微かな光さえない。
神経が研ぎ澄まされた。
気配はない。
気のせいだったのだろうか?
蝋燭を灯して再び歩きはじめる。
細い廊下だ。両端に部屋はないらしい。きっと離れに続く廊下だろう。
行き止まりにあったのはドアだった。純和風の屋敷の中で、この扉は西洋風だった。やはりここは離れなのだ。
この先に何があるのか、興味はあっても今は開ける必要はない。危険に自ら飛び込む必要もあるまい。
引き返そうと振り返ったとき、克哉は言葉を失った。
巨大な何かがそこにいる。
天井に逆さになってそれはいくつもの眼でこちらを見ている。
その眼の持ち主は一匹だ。
なんと天井には克哉の躰を越える巨大な蜘蛛がいたのだ。
克哉は背に手を回してドアのノブを回した。鍵が掛かっている。
逃げ場を塞がれた。
もし逃げられるとしたら、大蜘蛛の下を駆け抜けるしかないだろう。
それとも――大蜘蛛を仕留めるか?
克哉は隠し持っていた短剣を抜いた。
「ったく、こんな奴とは出くわしたくなかった」
物音を立てない――そんなこと構っていられなかった。
克哉は床を蹴り上げ全速力で走った。
大蜘蛛が落ちてくる。
紙一重で大蜘蛛よりも先に抜けた。
だが、大蜘蛛の尻から糸が噴き出された。
なんと強力な糸か!
粘糸は克哉の腕に絡みつき、さらには壁にまで固定されてしまった。
封じられた腕は短剣を握っていた右手だ。
力を込めて引っ張るがびくともしない。もし外れても肉ごと持って行かれそうだ。
大蜘蛛が迫ってくる。
迷っている暇などなかった。
克哉は蝋燭の火で絡みついた糸を燃やした。
腕が焼ける。
苦痛を浮かべながら克哉は耐えた。
酷い火傷を負おうとも、生きたまま食われるよりはましだ。
糸が焼けて取れた瞬間に克哉は走った。
大蜘蛛が大きく跳んで襲い掛かってきた。
状況など確かめてもいられない。
とにかく克哉は逃げた。
廊下に響き渡る足音。
恐怖が追ってくる。
振り向かずにただひたすらに逃げる。
確実に迫ってくる気配。
玄関が見えた。
克哉は焦りながら玄関の鍵を開けて外に飛び出した。
当然靴など履いている暇などなかった。
庭を駆け抜けて垣根を目指した。
あの垣根を登れば外に出られる――そう信じていた。
だが!
「わっ!?」
なにが起きたのか理解できなかった。
垣根を眼と鼻の先としたとき、なにか見えない力によって克哉は押し飛ばされたのだ。
「嘘だろ……本当に出られないっていうのかっ!」
地面に倒れながら克哉は振り返った。
――いなかった。
見通しのよい庭のどこにも大蜘蛛の姿はない。
庭までは追ってこなかったの……か?
見えないからと言って安心はできない。
一刻も早く逃げ出したい。
克哉は立ち上がると空間を調べた。
手を添えるとそこには見えない壁があった。
移動しながらその壁を触ってみるが、延々と垣根に沿って続いているように思えた。
「来る者は拒まず、去る者は逃がさずか……中に入ったという話を聞かないはずだ」
それが目の前の現実。
克哉は地面に胡座を掻いて、残してあった最後の一本を吸うことにした。
煙草を口に咥え、手を添えながらライターで火を付ける。
「ふぅ……煙草は吸いたいときに吸うに限るな、本当は」
空を見上げると星が輝いていた。
「いつも見る星は綺麗なもんなのになぁ。今は不気味に見える」
最後の一本を短くなるまで味わい、克哉は決意を固めた。
「さて、仕事の続きでもするか」
煙草を地面に投げていつも癖で足で消そうとしたが、靴を履いていないことに気づいてすぐにやめた。
さっき見えない壁にぶつかった拍子に落としてしまった蝋燭台を拾う。消えてしまっていた蝋燭に火を点け直した。
今ままで月明かりで明るいが、火が灯っていた方が気持ちの足しになる。
本当に外に出ることはできないのか?
克哉は見えない壁を触りながら歩き出した。
途切れることなく続く見えない壁。
高さはどのくらいあるのだろうか?
試しに克哉は小石を拾い上げ、天高く投げ飛ばしてみた。
放物線を描いた小石は垣根の遥か上を越えて屋敷の敷地を飛び出して行った。
「上は平気なのか?」
再び小石を拾った克哉は、今度は垣根に向かって投げてみた。
小石は垣根の隙間を通って外に飛び出して行った。
今度は蝋燭台を壁に見えない壁に近づけてみた。
壁のある場所を蝋燭台は通り抜けたのだ。
「生きてる者が駄目ってことか……死んでから出られてもな。死んでも出られるかわからんが……」
しばらく進んでいると小さな鳥居が見えてきた。その先には祠がある。
「神様と言っても八百万、友好的とは限らんからな」
静かに鳥居に近付く。
気配など微塵もなかった。
「お前誰だ?」
「っ!?」
克哉は驚きの余り蝋燭台を落としそうになった。
鳥居の影から出てきた幼女。謎の角を持つるりあだ。
克哉は冷静に振る舞った。
「お嬢ちゃんこそ誰ですかい?」
「聞いたのはおらだ」
「名乗るほどのもんじゃありませんよ。お嬢ちゃん……もしかして鬼?」
「…………」
急にるりあは走り出してしまった。
すぐさま克哉は腕を掴んだ。
「待ってくれ!」
「離せ!」
「離したら俺……私のことほかのみんなに告げ口するでしょう?」
「お前なんかに興味ない!」
るりあは克哉の腕に噛み付いた。
「いたっ!」
克哉の手を逃れてるりあが走って逃げた。
あまりの痛さに克哉は蹲った。噛み痕もまるで牙でも生えていたような深い傷だが、なによりも噛まれた場所が火傷を負った傷痕だった。
「っくそ、餓鬼のくせに……けど邪気は感じなかったな。本当に鬼だったのか?」
ここで克哉はこの家の名字を思い出した。
作品名:あやかしの棲む家 作家名:秋月あきら(秋月瑛)