あやかしの棲む家
3
夕焼けが蒼く染まろうとしている。
ついに克哉は動き出した。
まだ穴を覗く気にはなれない。そこで音を頼りにすることにした。
床の埃を払い耳を近づけ澄ませる。
音が聞こえた。規則正しい何かを叩く音だ。
もうしばらく聞いていると、女の声が聞こえてきた。
「菊乃さんまだですのぉ? わたしお腹が空いてしまったわ」
「申しわけございません慶子様。今日は捌く量が多かったものですから」
「静枝さんのせいね」
会話の最中だったら覗いても平気かもしれない。
克哉は意を決して穴を覗き込んだ。
そこにいたのは心惹かれた侍女とはじめて見た女だ。眼鏡を掛けたこの女は二〇代後半くらいだろうか。
どうやらここは台所らしい。
「静枝さんはすぐに玩具を壊してしまうものだから、わたしはもっと楽しみたいのに」
声から察するにこちらが慶子と呼ばれたほうだろう。だとすれば侍女のほうが菊乃だ。
二人はまだなにかを話している。だが、克哉の耳には遠い声に聞こえた。克哉の意識は別の場所にあったのだ。
まな板に乗せられたあれはまさしく……。
「こんな物のどこが美味しいのかわたしには未だにわからないわ。わたしは殺すのが楽しみだから」
慶子はそれを見てそう言った。
身体の芯から克哉はぞっとした。
菊乃はなんの躊躇いもなく、それから肉をそぎ落として調理する。
それ以上は見ていられなかった。
恐怖はあったがこの調子で別の穴も覗く事にした。
まずは音を確かめる。物音と気配がした。けれど天井近くからではない。
そっと穴を覗き見ることにした。
どうやらここは食堂のようだ。
勝手口で見た侍女が配膳の用意をしている。その脇に寄り添うようにいる幼女。克哉はその幼女の頭に目を凝らした。
――角だ、角が二本生えている。
まるでその姿は鬼だ。
角に見えるだけで瘤かもしれない。それにしても異様な位置にある瘤だ。
ふっと角の少女が天井を仰いだ。
克哉は眼があったような気がした。だがこんな小さな穴で眼が合うはずがない。
「どうしました、るりあ?」
勝手口の侍女が角の少女――るりあに尋ねた。
「…………」
るりあは何も言わず首を横に振って、天井から眼を離した。
気づかれたのだろうか?
ほかの住人は克哉に気づいているのか?
気づいていて知らぬ振りをしているのか?
まだ誰も屋根裏には来ない。
油断を誘っているのか?
不安はいくらでも生まれる。
克哉は次の穴を覗いた。この穴は前に覗いたことがある廊下だ。
廊下の向こうから少女の影がやってくる。
美花か美咲、どちらかだろう。
そのとき、廊下の横の部屋から激しい物音が聞こえてきた。
「うるさいわよ!」
美花か美咲の少女は物音のした戸に向かって叫んだ。
音は静かになる。
克哉はさらに目を凝らした。
物音がした部屋の戸に赤い札が貼られている。
封印されている部屋に誰かいたのか?
いたからこそ物音がしたのだろう。そして、美花か美咲の叱咤で静かになったのだ。
ここで克哉はふつふつと恐怖が沸いてきた。
蘇る恐怖。
こちらを覗いていた眼。
あの眼を見てしまった部屋だったのだ。
赤い札のあった部屋はもう覗くまいと誓った。
そして、屋敷の中を歩いたときの記憶をたぐり寄せた。
赤い札のあった部屋はどことどこにあったのか?
――正確には思い出せない。
穴を覗く前に赤い札の部屋を把握する必要がありそうだ。
今の時点でほかに覗けそうな穴はないか?
この屋根裏の入り口があった部屋だ。
さっそく克哉はその部屋の穴を探した。
屋根裏の来たばかりのころは気づかなかったが、やはりこの部屋にも穴があった。
克哉は気配を探った。人の気配がするような気がする。話し声や物音は聞こえない。覗くか覗くかまいか迷うところだ。
なにがあろうと驚かないと心に決め、深呼吸をしてから克哉はその穴をそっと覗いた。
少女が机に向かって読書をしているようだった。美花か美咲か、瓜二つなので見分けは付かない。
先ほど見た少女とこちらの少女。たしかに雰囲気が違う。姿形は同じでも、そこでどうにか見分けられるかもしれない。
しばらくようすを伺っていると、戸の奥から声が聞こえてきた。
「美花さま、失礼してよろしいでしょうか?」
「どうぞ瑶子さん」
「はい、失礼します」
勝手口で見た少女――瑶子は部屋に入ってきた。
「お薬がまだのようなのでお持ちしました」
瑶子はそう言って盃が美花に渡そうとした。
本にしおりを挟んで美花は怪訝そうな顔を瑶子に向けた。
「もう飲みたくありません」
「そんなことをしたらお体が……」
「本当にそうなのか、試してみなくてはわかりません」
「美咲さまも静枝さまも飲んでいらっしゃるのですよ?」
「そうですね、それが当たり前のように。わたしはこの家で生まれ、この家で育ち、何の疑問を抱かずそれを飲み続けてきました。しかし最近になって思うのです。それを飲む行為は正しいことなのか」
「そうおっしゃらずに」
瑶子は盃に朱い液体を注いだ。
「飲みたくないと言っているでしょう。これからは食事もお母様やお姉様とは別の物にしてください。食事を摂るのもこの部屋です」
「そんなこと静枝さまがお許しになるはずが……」
「今日のところは具合が悪いとでも伝えておいてください。あとでお母様と話をしてみようと思います。どうぞそれを持って行ってください」
「失礼いたします。しかしこれは部屋の隅に置いておきますから」
瑶子は部屋を出て、正座をしてから一礼して戸を閉めた。
部屋の隅に置かれままになった盃と銚子。美花はそれを見つめ続けている。克哉も同じように見つめた。
あの朱い液体はなにか?
美花の躰が震えはじめた。
視線は盃に注がれたまま美花は何かに葛藤しているようだった。
拳を強く握り、歯を食いしばっている。
それも長くは続かなかった。
美花は盃と銚子に駆け寄った。
そして注がれていた盃に手を掛けたのだ。
美花は泣いていた。
泣きながらその朱い液体を一気に飲み干した。
さらに銚子から盃に朱い液体を注ぎ、銚子が空になるまで飲み干した。
美花の口元から朱い液体が垂れている。
指でそれを拭った美花は、しばらく眺めたあと、指事それをしゃぶった。
「……できなかった……我慢できなかった……意志ではどうにもならない本能なのね」
美花はぐったりと壁にもたれかかった。
あの朱い液体が克哉の想像するものであれば、それはおぞましい行為であった。
しかし、今目の前で泣いている少女は、すぐにでも抱きしめてあげたかった。
美花の葛藤は克哉にも伝わったのだ。
静かに克哉はその穴をあとにした。
陽が落ち、空は月明かりに照らされていた。
椅子に腰掛け休憩をしていた克哉は蝋燭に火を点けた。
克哉はその場を移動して食堂の穴を覗く事にした。
食事の頃合いを狙うつもりだった。その時間であれば、この屋敷の住人が多くその場に集まっているはずだ。まだ知らぬ住人がいるかもしれない。
まずは耳を澄ませてようすを探る。小さな物音がいくつか聞こえる。女の話声も聞こえてくる。
作品名:あやかしの棲む家 作家名:秋月あきら(秋月瑛)