千切れた嘘
と、思わず声が出た。訳がわからなかった。全く、俺が一体何をしたって言うんだ。慌ててバッグを掴んで教室を出た。教師は授業を続けながらじとりとこちらを見たが、何も言わなかった。
「おい、何すんだよいきなり!」
七海は教室を出てすぐのところにいた。壁に背中を預けてしゃがみ込み、俯いたまま俺の勉強道具を両腕で抱えていた。正面に立った俺に苛立ちの籠った声をぶつけられて、七海はのろのろと顔を上げる。立ち位置のせいで、七海の胸元の白さにいつも以上の鮮烈を覚えた。ふと一点に視線が引き寄せられる。服に隠れるぎりぎりの部分、そこに赤い痣があった。目を奪われる。衝撃が胃の中をのた打った。
男遊びの話を小耳に挟むのと、実際にその一端を目の当たりにするのとは大違いだった。鬱血の暗い鮮やかさに、苛立ちとは別に頭に血が昇る。
そんな俺に気付かないまま、七海はぼおっと俺を見上げながら言った。
「切れちゃったの。ミサンガ、失くなっちゃった……」
「え」
視線を七海の赤く色付いた肌から引き剥がすように携帯電話の方へ移した。機能的だけれど可愛らしい黒のショルダーバッグ、そこからストラップの部分だけ外に出している。いつもひっそりと隠れているミサンガが、今そのストラップの中にないと思うと不思議だった。俺の視線に気づいたのか、七海が腕に抱えていたものを俺に返し、携帯を手にした。ストラップを掻き分ける。現われたのは、ミサンガの結び目から下が一センチもない糸屑のような紐だった。
七海は無言でミサンガの残骸を睨んでいる。何に怒っているのか、俺は全く分からなかった。
「でもお前、ミサンガって切れれば願い事叶うんだろ? 良かったじゃ――」
「そんなのいいからっ! 早く一緒に探して!」
それはか細い悲鳴だった。俺は言葉を失う。
いつもの余裕はどこに行ったのか、七海は畳みかけるように言った。
今日の二限までは間違いなくあった、それから通った通路は向こうと、あっちと、あそこで、教室は――
心当たりを一方的に指を折りながら並べ立てる。その指先が微かに震えていた。そのことに気付いて俺は急激に焦り始める。どうする、どうすればいい。なんでこいつはこんなに脆くなってるんだ?
「ちょ、ちょっと落ち着けって、俺ついていけてねぇよ」
俺の声に、七海ははっとしたように言葉を止めた。迷うように瞳を揺らがせたあと、意を決したように言った。
「あれ、形見なの」
「……え?」
「死んだ元彼の、形見なの、だから」
だから、探さなきゃ。
そう続ける七海はまるで自分に言い聞かせているかのようだった。目は俺を見ていなかった。まるでこの事実が受け入れられないかのように、千切れた部分を何度もなぞっては確かめていた。その必死さに、俺は何も突っ込めなくなる。
「……そんなに大事なものならお前の友達も呼んだ方がいいんじゃないか? 人手は多い方がいいだろ」
そう提案すると、七海はうーんと唸った。
「みんなにはこんな話、してないし。っていうか私のミサンガに気付いたのなんて一樹だけだから。言っても分からないと思う」
「そう……」
教師のマイク越しの声がぼんやりと聞こえてくる。五限の授業時間である今、教室の外は日中に比べて断然人が少なかった。ひっそりと静けさの漂う廊下、その先に広がる空間を七海と並び、黙って眺めた。
とりあえず七海の心当たりのある場所を順に回ることになった。一歩一歩慎重に隅々まで見落とさないように気を付けながら。
一周目で、それに似た物すら見当たらず、二周目も徒労で終わった。だんだんと七海の顔に絶望感が滲み出す。
もしかしたら見落としてるのかも。そう言って七海が三度目の女子トイレに入って行ったため少し離れた壁際で待つ。その間、七海との会話を思い出した。形見。どういう気持ちであの言葉を口にしたんだろう。
考えている間も、視線は床を彷徨う。トイレの前、教室のドア付近、階段周り、そして。
「あ」
と声を発したのと七海がトイレから出てくるのが同時だった。俺の視線を辿って七海がばっと顔をそちらに向ける。俺の見ているものを見定めるまでに数秒。そして次の瞬間駆け寄った。
「あった……!」
視線の先には整然と設置されたゴミ箱。
その「燃えるゴミ」と書かれた灰色の容器のすぐ横に、七海のミサンガは陰に溶けるように落ちていた。
しゃがんでそれを手に取ったまま動かない七海の頭の上から、俺はミサンガを覗き込んだ。まともに見るのは初めてだった。片端が千切れて解けかけのそれは、色褪せて薄汚れて、それでもなんとか元は濃淡の違うピンクの糸で作られていたものだと見てとれた。
恐らく七海がここで落としたわけではないだろう。拾った誰かに投げ捨てられようとして、ぎりぎり入らずゴミ箱を掠めて落ちていくミサンガを想像してしまい、慌ててそれを振り払う。七海に知られたくなかった。こんなにもミサンガは色褪せていること、ぼろぼろなこと、ゴミ箱に捨てられ損なっていたこと、それでも七海はそれに執着していること、これら全てが俺にはどう見えているか、七海に知られたくなかった。
ようやく七海が立ち上がる。
「ありがとう。一樹に頼んで良かった」
「……ん。たまたまだよ」
「でもすごい。さっすがだね。授業だったのに、引っぱり出したりして、ごめんね。ほんとありがと」
今度、何か奢るよー、と七海がやっといつもより少し弱々しくだけれど笑った。俺は答える。
「いいんだけどさ、今度呼びだす時はもっとソフトに頼む」
「わかった、ごめんね、善処します」
冗談めかして七海はそう言うと、バッグから綺麗な刺繍の入ったハンカチを取り出し、ミサンガを丁寧に包んで右のポケットに仕舞った。
それを見て、俺はやっぱり胸が詰まるような、ざらりとした感覚が消えない。
「なぁ」
七海に声をかけた。
初めてミサンガについて訊いたときと同じ何気なさになるように、神経を集中させて。
(なぁ、そのミサンガ、お守りか何かなのか?)
あれと全く同じ軽さで、俺は言う。
「元彼が死んだって、あれ、嘘だろ」
それを聞いた、というか耳にしたのは偶然だった。
俺と七海の友達が履修していて、七海だけとっていない授業が週に一回ある。といってもあいつらはサボることも多いからなかなか会わないのだけど、その日は偶然揃って出席したのだった。いつもそうだけれど、ギャル達の雑談は決して大きな声ではないのによく耳に届く。自分が机に突っ伏して目を閉じているからか、やけにはっきりと聞こえてくる声。その時の話題が七海についてだった。
「七海ってさ、外見カワイイのにほんとやることエゲツないよね」
「ね! この間とか合コンで知り合った二人、一度に相手したんでしょ?」
「うわあ、さすが来る者拒まず去る者追わず!」
「モトカレが今の七海見たらどう思うだろうねぇ」
「えっ、なにそれ、あの子カレシつくったことあるんだ!?」
「あるらしーよ、高三の時に。飲み会で七海が珍しく酔った時に聞いちゃったぁ」
「ずっるい。……高三って四年前かー」
「そそ。モトカレ年上だったみたいなんだけどさ、いろいろあって別れたみたい」
「ちょっと、いろいろって一番重要なところじゃないの」