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鍵と鈍色

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 身体に触れたものが、腐る、腐敗する。
 それはそんな生き物だった。一見して人間のように見えるが、実際はそうではない。顔や手足は人と似た形をしているが、それ以外に生き物としての共通性はない。
 こんな生き物がこの世に生まれ出た原因は定かでない。薬害でヒトが変形した人亜種だと言う学者もいれば、放射能のせいにする研究者もいる。いまや、あちこちで際限なく振りまかれる放射能のせいで、地表はずたずただ。果ては宇宙からの飛来生物説とやらもあるが、真相は結局わからない。いままでに何人かの『勇敢な』人間が調査を試みたが、そうした人々は皆一様に、次々と腐って死んでしまった。
 人、動物、草木、建物。そしてやがては彼女たちが立っていた地面までもが、溶けるように黒ずんで腐敗した。
 ところが、《女》がいくらその手でぺたぺたと触れても、ガラスだけはどうしてだか腐ることがなかった。なぜかは判らない。そんなこと、どだい彼のような一介の清掃員には知る由もなかった。
 あの、薄っぺらで貧弱な牢獄。
 それこそが脅威の《女》を囚えている。
 あんなに些細で、ちっぽけなものが。

     4

 頭上から降る光は弱い。
 彼は、食堂で一人味気ない飯をつついていた。
 磨り減って傷だらけになったスプーンの先で、粥とも汁ともつかないものを掻き混ぜる。神経質に、何度も何度も。
 端から食欲なんてものはない。ただ、これは宛がわれた食事だから、宛がわれた通りにこうして出てくる。それだけのことでそれ以上の意味はない。いびつに歪んだアルミ椀の中の、どろりとしたものはもうとっくに冷めていて、不快な臭いをさせている。
 気味の悪い光沢を持つ、びっしりと密集したその白い粒の塊。まるで腐肉にたかる蛆のようだ。
(吐き気がする)
 背後で、同じ穴の狢の声がした。
「……なあおい、お前、聞いたか? 鍵が一組み盗られたんだとよ……ほら、あの化け物の……」
「一体どこの物好きだ、そりゃ……」
「……俺が知るかよ。……ところでお前、あんときの――」
 天井から降る光は弱い。
 食器をそのままに、彼は素早く立ち上がる。
 まるで逃げるようにそこを出た。背中がかすかに汗ばんでいる。元から開いている襟を意味もなく引っ張った。どうしてだか、息苦しくて仕方がない。
 前へ進むための足音が、やけに大きく反響して聞こえた。
 左手が静かにポケットへ伸びる。震えながら。すがるように。
 ほとんど無意識のうちに、『あの鍵』が入っているほうのポケットへ。

    5

 彼は、いま、《女》の部屋の中にいる。ポケットには、いつものように二つの鍵がある。片方は彼のロッカー、片方は《女》の戒めを解くための。
 一昼夜を過ぎ、再びこの部屋に来てからこのかた、彼の心臓は不自然な速さで波打っていた。いまにも頭がどうにかなってしまいそうだった。ポケットに突っこんだ手のひらが、鍵に触れたままぴくぴくと痙攣している。
 目の前でひっそりと座りこんだ《女》は、相も変わらずぴくりとも動かない。
 指の腹で鍵を撫でる。
 意外なことに、彼が局員の隙を突いて鍵を盗んでも、騒ぎらしい騒ぎにはならなかった。ただ怪訝そうに眉をひそめられただけだ。ただ奇妙に思われただけ。薄っすらと局員たちの口にのぼり、管理体制の甘さが指摘され、しかし、改善はされなかった。
 彼はかすかに、声を立てて笑った。
 壁に掛けられた時計を見上げる。局員のやって来る時間はまだ遠い。大丈夫だ。気取られて邪魔されることはあるまい。彼はそう思って、奇妙な安堵が胸に広がるのを感じた。
 ここで生きてゆくこと――それが悪いことだとは思わない。人にはそれぞれの生き様と言うものがある。落伍者は自分のほうなのだ。だが、これが敗者の末路と言うのなら自分は喜んでこの道を選ぶ。ただそれだけのこと。
 自分は夢を見ているのだろうか。
 ふらふらと、虚ろな調子で足が動いた。まるで《女》に引き寄せられるように。ポケットからどうしようもなく震える手で、一本の鍵を取り出す。忌まわしくもいとおしいその鍵を。
「……ただ、俺は、俺は、せめて何か……」
 思わずこぼれた声は、かすれていた。
 そして鍵を、意を決したように鍵穴にねじこむ。
 自分に用意されたはずの世界のなかでは、とても生きられなかった。
 駄目だ、わからない。もう何もかも。
 足は迷わず、じりじりとガラス箱のほうへ近づいてゆく。
 白か、黒か。
 それらの溶け合った濁ったものではなくて、何とかしてそのどちらかになりたかった。
 その為に、こうすることが必要だと言うのなら。
 迷うこともない。俺は、全き黒の側へゆく。
 恐らくは死体、恐らくは腐肉。
 《女》は、彼が見る限り初めて身体を動かした。まるで珍しい客を歓迎しようとするかのように。いずれ錯覚だろうが――睫毛のない、ぱっちりとした青い目玉が彼の姿を捕らえる。それはかすかに潤んでいて、息を呑むほど美しかった。《女》の四肢はゆらゆらと解放を喜び、うねる。声にも音にもならぬ咆哮が、その場に染み渡ってゆくようだった。大きく寛容に打ち広げられる腕。唇に似た何かが、左右にきりりと吊りあがる。笑っていた。
 彼はうやうやしく《女》の手を取った。同時に、《女》に触れたところから、皮膚のはがれるような感触が生まれる。その手を痛みと共に撫ぜながら、彼はまるで白い災いを愛おしむように自分の胸に当てる。その、柔らかく冷たい白い手のひら。彼の心は安らかだった。この上もないほど安堵していて、彼は《女》の目を見てにっこりとした。恋人を見るような眼差しだった。

 酸を浴びたような痛みが走って、
 ひときわ強い目眩が襲った。
 すべてがくしゃくしゃに歪んでゆく。

 俺は息を心底から吐き出した。
 ああ。
 俺が、崩れてゆく。

 胸には歓喜の声があった。

 俺、が、
 腐ってゆく。


2003.7.14

作品名:鍵と鈍色 作家名:青褪めた