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鍵と鈍色

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   鍵と鈍色

     1

 錆びの浮いた水が、踏み抜いた足の乱雑さにばしゃりと跳ねる。道端に伸びた影は乏しい光源と曖昧な闇のせいで長く、薄い。
 灰色に煙った空。これ以上黒ずむことも、これ以上晴れることもない。濁りきって精彩を欠き、ぞっとするような不気味な色を呈している。分厚い雲はとぐろを巻いて、太陽光を直接下界に通さない。何度見ても――それこそ毎日見ていても見慣れることのない、嫌な色を浮かべている。まるで死んだ魚の目のようだと、彼は内心忌々しく毒づいた。
 彼はけぶった空を睨みつけながら乱暴に、まるで殴りつけるようにして目の前に突っ立っていたドアを開ける。
 そのドアは、錆びたような、潰れたような、ひしゃげてくすんだ鉛色をしていた。
 彼はかすかな目眩を感じて立ち止まる。
 目の前には、どこまでも続き続ける濁った灰色の時間だけがある。果たしてこれは夢なのだろうか? いつか目覚めて、何もかも終わりになるのだろうか。それとも、これは紛れもない現実そのものであって、いつ果てるとも知れない永遠のものなのだろうか。
 鉄の獣が規則正しく吐き続けた息をすすって、青天井はいつの間にか消えた。けれども、誰もそんなことには構わない。むしろいまの空のほうが、かつての青空よりしっくりくるとでも思っているのかもしれない。嘆かわしいかな――その空が、昔は青く澄んだものだったなど、覚えている人間もないのかも知れない。
 それは奇妙に腑に落ちる考えだった。彼は薄ら寒けた気持ちで考える。きっとそうなのだろうとも。
 彼はゆっくりと、細長い息を吐く。
 ここは、ありとあるものが交じり合い、誰もが思い出せぬほどの昔に個という概観を亡くし、『特別』という幻想が完膚なきまでに打ち砕かれた世界だった。
 彼の脳裏には、そのことへの焼け付くような苛立ちがある。なぜかはわからない。ただ、どうなりたいとも感じず、どこへ行こうともしないまま、生きることをこなすということが、彼にはどうあっても苦痛だった。
 それでも、この胸の悪くなるような世界こそが、彼の生きるべき場所だった。ここに生まれ、ここで育ってきた。どこを探したって、彼に用意された場所は他にない。何をしようと同じこと。すべては地続きで逃れようがない。
(逃げるって――いったい、どこへ)
 彼は白々と笑った。バタン、と、背後で勢いよくドアの閉まる音がする。彼はなおも強く目眩を感じながら、階段をふらふらと降りていった。まるで奈落の底に続いていそうにも見える、虚ろで暗い階段を。
 下っていった底の底。行き止まりにはもう一枚のドアがあって、今度は静かにそれを開けた。薄暗い、何本も横道の開いている通路を、彼は器用に、かつ機械的に、慣れた様子で迷うことなく進んでいく。
 やがて一つの部屋へとたどり着いた。

    2

 そしていま、彼の目の前には一人の女がいる。
 寂しい肩をした、無口で静かな《女》だ。彼は一度として、《女》がその口でものを喋るのを聞いたことがない。うめき声やら叫び声やら、およそ声と呼べそうな類のものを女は口にすることがなかった。それどころか、《女》が息をしているのかどうかも疑わしい。食事をしている様子も、眠っている気配もない。その場にじっと座り込み、微動だにしない《女》。生き物であるなら多少なりとも身動きをするものだろう。座り直したり、立ち上がったり、とにかく何でも良いから、ちょっとした動作を。だが《女》は動かない。果たしてあの《女》の身体の中には、心臓かそれに準ずる何かしらの臓器が収まっているのだろうか。
 いや――彼にはそもそもこの生き物を、女と呼んで良いのかもよくわからない。それどころか、生き物と呼んで良いのかどうかさえ。
 確かに容貌のみを語るならば、それはまさしく女である。
 《女》は、小さな部屋ほどの大きさをした、素っ気ないガラスの箱の中へ納められている。箱の置かれた部屋は、隅まで一面白く塗られていた。頭上からは、光度の高い蛍光灯の光がうるさく降っている。うろんな白々しさが目に沁みた。この徹底的な白さが、彼には薄気味悪く思えて仕方がない。まったく、この世は気違いじみたものたちで埋め尽くされている。
 白くまばゆい光と、その下にわだかまるどす黒い影。
 この部屋に存在しているのは、彼を除くのならその二色だけだった。鮮やかな黒白のコントラスト。
 地面に黒い影を落とす白い《女》。その影だけが、《女》がたしかに実在することの証明だった。
 彼は、ほう、と息をついた。ここは彼にとって、数少ない、安らかな場所だった。
 自分が何かしらの物音を立てない限り、音の全くない、そしてきれいさっぱり色彩の消えてしまった空間。
 ここには、嫌味ったらしい曖昧さはない。
 彼はそろそろとガラスの箱に近づいた。
 《女》はやはり微動だにしない。
 彼は低く、せせら笑うような歪んだ笑い声を上げた。容姿のみを言うのなら、《女》は惚れ惚れするほど美しい。白い髪に白い肌。北国の雪か氷を削り出したようだ。口元と思しきところにほんのりと薄紅が差していて、眸に見える部位には、冬の海のようなわずかな青を湛えている。
 《女》は美しかった。まるで欠陥など見当たらない。完璧だった。
 そしてやはり、彼の眼には女であるとしか映らないのだった。
 彼は《女》を見つめる。
 うつむいた端整な横顔を眺めていると、人間ではあり得ないほどの完成されたシンメトリの美に目を奪われる。
 所在なくポケットへ突っ込んでいた手のひらが、ふと一束の鍵に当たった。こことは別の部屋にある、彼のロッカーのものと、目の前にある『箱』を開ける為の鍵だ。その二つの鍵束のうち、本当ならば持っているはずのないほうの鍵を、彼は汗ばんだ手で、神経質にカチャカチャと鳴らした。長いことポケットに入れっ放しになっていた鍵たちは、彼の体温で生温くなっている。金属的な冷ややかさはすでにない。
 彼の仕事はこの薄気味悪い人工の施設を、清潔に掃除しておくことだった。割り振られた時間この部屋にいて、果たして生きているのか死んでいるのか判然としない――生き物であるのかさえ、よくわからない《女》のために部屋を清めるのだ。
 彼は軽く伸びをしながら、部屋の隅に貼りつけられた時計を見上げた。長い間壁にもたれていたものだから、身体がこわばっている。
 見上げた先の時計の針が、鋭く正午を指している。彼は肩をすくめた。正味半時間ほど、何もせずここで睨めっこをしていたわけだ。人のあまり立ち入らないこの部屋は、そもそも掃き清めるだけの汚れもない。
 数分後、ドアが軋みながらぽっかりと開いた。何とも冴えない風体の施設局員が、のそのそと部屋に入ってくる。白衣を着たその男は、汚らしいものを見るような目で彼を一瞥した。追い払うような身振り、手振り。彼は大人しくその部屋を後にした。この施設にいる連中は誰も彼もがこんな調子だった。
 振り向きざま、扉の閉じる最後の一瞬、かすかに視界へのぞく白塗りの室内を見た。それは嫌味なぐらい明るく、けれど片隅にわだかまる影は、何かそれより一層深いねっとりとした闇を孕んでいるようにも見えた。

     3
作品名:鍵と鈍色 作家名:青褪めた