黄昏の金魚
最近、奇妙な夢を見る。
内容はよく覚えていない。ただ、暗闇の向こうで赤い影がゆれているのだ。それは少しずつ人の形になりそして――。
ぼんやりと夢の残滓を辿っていると、隣を歩いていた友人から話しかけられる。次の授業までは時間があるから、だらだらと廊下を歩いていた。
「最近、お前放課後何処に行ってるんだ? すぐにいなくなるよな」
「あー……ちょっと、な」
「何だよ。彼女でも出来たのか?」
彼女。そんな大層なものだったらいいのに。いや、むしろ。
そんなんじゃないと言いかけて、ふと立ち止まる。
ふわりと赤い影とすれ違った。
急いで振り返るが、狭い廊下には生徒がまばらにいるだけで、他には何も見えない。気のせいか。しかし。
ぐらぐらと世界が揺れる。思わず膝をつくと、そのまま意識が闇に飲まれていった。遠くに友人の呼び声が聞こえる気がするが、応えることが出来ない。まるで水の中にいるように全てが遠くぼやけている。闇の向こうで赤い鰭が波にたゆたっていた。
「昨日倒れたらしいけど、大丈夫?」
いつものように舞が終わった後に、彼が話し掛けてきた。いつものように、彼は屋上の淵に腰掛け、俺はその前に立って。暑いのか、彼は白い手で必死に胸元へ風を送っている。
「なんで知ってる」
「風の噂で」
ふふ、と彼が微笑んだ。首筋を伝う汗が白いシャツの中に消える。気だるげにため息をついて、足元の振袖を蹴り上げた。
「これが暑いんだよなあ」
「人魚って、人魚姫なのか」
「そうだよ。魔女に声を捧げて王子様の元へ」
「あんたが人魚? やっぱり何となく似合わないな」
彼は小さく肩を竦めただけで、それ以上何も言わなかった。
「自己犠牲。泡になって消えるなんてあんたには似合わないよ」
手で風を仰ぐのを止めると、彼は真面目な顔になって呟いた。
「だから刺されたのかねえ」
その言葉に、今度は自分の方が口を閉ざすしかなかった。
「もう三年も前のことなのになあ」
なんの感情も籠らない声でそう言うと、薄いシャツの上から、傷の残る場所を撫でた。網膜に焼きついた赤い傷痕がはっきりと思い出される。彼の美しさを損なわない赤い引き攣れた傷痕。ただそれが、自分の知らない誰かがつけたものであるというだけだ。ただそれだけだ。
「尊敬してた兄弟子だったんだけどな」
上手くいかないなあ、と遠くを見つめる彼はひと際儚げに見えて、胸の奥に得体のしれない感情が湧きおこった。頭に鈍い痛みが走る。目を瞑ると、夢の映像が次々とフラッシュバックされた。微かに呻いてうずくまる俺を、彼が不思議そうな瞳で見つめていた。
それからも数回、放課後に屋上へと上り、彼の舞を見た。彼が舞を止めるまで、お互いに一言も発しない。舞が終わっても話すことは天気のことや学校のぼろさなど、他愛もないことだった。それ以外は、必要なかった。
一度だけ、彼が帰った後に、いつも彼が踊っている場所に立ってみたことがある。見下ろす地上は気が遠くなるほど離れていて、立ちすくんでしまった。遥か遠くに植えられた草や木が風に揺れているのが見える。こんなところで舞う彼は、正気の沙汰ではない。一体何を考えているのだろうか。
静かに緩やかに、空と屋上の境界へ冷たい風が通り抜ける。沈黙。静寂。残照が消えていく。
ただ、赤い尾びれがひらひらと視界の端に揺れていた。
その日も、夕日が綺麗だった。
いつものように緋色の人魚の泳ぎを静かに見つめる。白い指は上から下へ右へ左へ不規則に流れる。彼の細い体に纏わりつく赤い布が、彼をさらう波のようにも見えた。言葉もなく、夕暮れの空に彼が舞う。
いつもと違ったのは、彼が舞を止めてこちらを見た時。
昏い衝動が湧きおこった。彼の白と赤のコントラストが夕映えに包まれる彼の姿が――。
落ちればいいのに、と思った。
彼の立つ空との境界を越えて。ひらりと風に抱かれ地へ墜つる姿はどれだけ美しいだろうか。赤い尾びれを纏い、朱の残影を描き砕け散る様を思い浮かべた。その鮮烈な紅に脳裏を支配される。赤い尾びれが揺れていた。赤い赤い深紅の――。
知らず、彼の側へと歩み寄っていた。両手を伸ばして彼の頬を包み込む。冷たい、氷の美貌。死の香りを漂わせる甘い艶花の微笑。そのままするりと滑らかな肌を辿り、細い首へと指を絡める。微かに震えた彼の呼吸を押し込めるようにじわりと力を込めていく。衝動は消えない。
淡い笑みを浮かべていた彼の顔から、すうっと表情が抜け落ちる。
――お前もか、とその瞳が告げた。
細首を絞める力を強めながら、苦しげに薄く開いた唇に誘われるように口付けた。彼の吐息も呻き声も、全て飲み込むように。諦めたように彼の揺れる瞳が閉じられた。
そのままゆっくりと体を傾けていく。境界の向こうへ。薄靄の向こうへ。ぐらりと。
彼が背に羽織っていた振袖が地上に落ちていく。風を受けて赤い花が開くように、ゆっくりと。
傾ぐ体を止めようとしてか、彼の右手が宙を掻く。左手は自分の背中にすがり、爪を立てた。シャツ越しに伝わる鈍い痛みは、深紅に染まった思考の海にぼんやりと飲まれて消えた。
ふと、彼が微笑んだ気がした。
おとぎ話の人魚は声を奪われ、泡となって海に溶けた。それでは、口付で声を塞がれ、恋に溺れた金魚は――。
そして、二匹の金魚は黄昏の向こうへと。