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黄昏の金魚

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 扉の向こう。
 ひらり、と紅の風が舞った。
 何かに誘われるように導かれて辿り着いた寂れた学校の屋上は、微かに濡れた空気が満ちていた。午前に降った雨の気配がまだそこには残っている。
 重い扉を開いて一番に飛び込んできた光景に目を奪われた。紅の流線がひらひらと揺れていた。目の前で繰り広げられる光景は、視界と思考を朱の残影で鮮やかに埋め尽くす。
 屋上の縁の一段高くなった場所に、一歩踏み違えれば落ちてしまうような危険な場所に彼は立っていた。否、そこで彼は舞っていた。制服の白いシャツに黒いスラックス。胸元の釦は二つほど外されている。半袖から覗く白く細い腕が眩しかった。異様なのは彼が手にした深紅の振袖。極彩色の刺繍があしらわれた美しい布地は、放課後の学校という場所からは完全に浮いていた。しかし、その異様さこそが彼の妖艶な舞を際立たせていた。
 沈み始めた太陽に照らされた横顔は凛として、均整の取れた肉体は指の先まで美しかった。白い指が滑らかに流線を描く。水を掻き分け泳ぐ魚の様に緩やかで情熱的な躍動。手にした赤い振袖が、動きに合わせて揺れる。そして、彼はなびく振袖を思い切り宙に放ると一歩踏み出した。あっと思う間もなく、縁を蹴ると宙で回転し、再び同じ場所へ着地する。少しの躊躇いも感じられなかった。そこへ、赤い布がばさりと落ちてきて彼の身体をすっかり覆ってしまった。
 一秒、二秒、十秒……。彼はそのままの姿勢で動きを止めてしまう。そして、赤い塊が微かに震えだした。
 彼は笑っていた。高そうな振袖をコンクリートの地面へと迷うことなく投げ捨てると、彼は段を下りてこちらを向く。
「失敗しちゃった」
 白皙ににやりと笑いを浮かべ、そう言った。驚いて身動きの取れない状態で固まっている自分に向かって ひらひらと手を振る。いつから気付いていたのだろう。
「人魚の舞なんだ」
 沈む夕日に彼の淡い色の髪がきらきらと輝く。白いシャツの隙間から見える首筋から目が離せなかった。しかし、そこから目を逸らそうと何度か瞬きをして、無理矢理声を発する。
「……金魚かと思った」
「あはは、いいかもね。金魚」
 そう言って、彼は赤い振袖を拾い上げ、ひらひらと鰭のように動かした。そして、屋上の淵に再び飛び乗ると、着物を頭上にかざして回って見せる。彼は危なげもなく、細い縁を走り、回り、飛び、軽やかに舞って見せる。先ほどとは打って変わった明るく華やかな金魚の舞。
 着物の裾が尾びれの様に空気を散らす。思わず、似合わない、と呟いていた。その言葉は彼に届くことなく、雨の匂いのする空気に溶ける。こんなものは彼の舞じゃないと何かが告げていた。
 金魚の舞を終えると、彼は赤い着物を羽織って縁に腰掛ける。
「はじめまして……かな?」
 にこりと笑って彼が言う。まさかそんな言葉が出て来るとは思わず、俺は目を瞬かせた。
「そう、だな」
 ぼんやりと言葉を返すと、彼は笑みを深くし、首を傾けてよろしくと楽しげに言った。その微笑に頷き返すと、それにしても、と彼が言葉を続ける。
「俺の他にこんなところに誰かが来るなんて思ってなかったなあ」
「……俺だって誰かいるとは思わなかった」
「そもそも立ち入り禁止だし、ね?」
 彼が白い指をひらひらと器用に動かす。繊細で美しいその動きは、同じ人間とは思えないような妖艶さを纏っていた。舞の一部だろうか。しかし、彼は何を思ったのかそのまま指で影絵を作り始める。犬、狐、鳩、と簡単なものばかりだが、そんな戯れの行動もどこか淫靡さが漂っていた。
「柵がないから危ないせいだろ」
「四階建ての屋上に柵がないなんておかしいよねえ」
 彼が不思議そうに呟く。影絵の犬が吠える。
「ああ、だからそのうち建て替えするらしい」
「えっそうなの? じゃあ踊れなくなるのかなあ。それは困る」
「まだ先の話だろ。予算が下りるかどうかも怪しいし」
 どうしてこの場所で踊らなければならないのか。何となくそれは聞けなかった。動きを止めた影絵から、彼へと視線を移動すると、不敵な彼の眼差しと交錯する。彼はにやりと笑い、茶化すように「Bow!」と吠えた。会話はそこで途切れる。
 しばらくして、おもむろに彼が立ちあがった。どうやら帰るらしい。大分冷たくなった風が二人の間を吹き抜けて行く。振袖を無造作に畳むと、出口、つまり俺に向かって歩いて来た。
「また会いたいな」
 そう耳元で囁いて、彼が横をするりと通り抜けた。刹那、赤い幻影が脳裏を掠める。太陽はもう見えない。
 くらり、と目眩がした。



 次の日も、何故か屋上へと勝手に足が向いていた。古い鉄製の扉を開くと、飛び込んで来る舞に再び言葉を失う。
 今日は昨日よりも気温が高い。彼が動く度に、汗が宙へ散る。夕日に光る雫をぼんやりと見つめることしか出来なかった。鋭い眼差しは演舞の想い人へ向けられているのだろうか。夕暮れの空の下、紅の人魚は踊り続ける。
 彼の舞は一体何を表わしているのだろうか。人魚。彼はそう言った。一途に愛し続けてもなお報われない人魚。
 彼が赤い振袖を上空へ放る。昨日とは違い、赤い布は彼の目の前、つまり屋上の地面へと落ちた。彼は、布を空へ投げた姿勢のまま、目を閉じて動かなかった。まるで時間が止まってしまったかのように。
 一歩、彼へと近付く。人魚は一体何を思っているのだろう。そんなどうしようもないことを考えながら、地面に広がる赤を血の様だと思った。彼がゆっくりと目を開くと、虚空を見つめる瞳は微かに潤んでいる。気付けば、彼のすぐ側まで歩み寄っていた。そして、揺れる瞳は再び閉じられる。
 一通り踊って満足したのか、彼は疲れたと呟いて、シャツの裾で汗を拭った。ふと、ちらりと見えた滑らかな素肌に走る歪な跡に気付いた。その視線に彼も何か感じ取ったのか、少し迷いを見せながらも、もう一度裾を捲ると指で差して見せる。夕日の下で滑らかな白い皮膚に浮かぶ赤い線が晒された。
「これね……昔、刺されたんだ。俺の舞は人をおかしくするらしいよ」
 彼が目を細める。それはどこか諦めた様な、冷めた笑みだった。
 ふうん、と興味がないように頷く。しかし、ひきつれた傷痕は刻印のように視界に鮮明に焼き付いて、いつまでも離れなかった。


作品名:黄昏の金魚 作家名:hazki