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カタルシスの孤独

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「カエデ、カエデ。いつも通りに頼むわよ」

声に交じってブウウンと低周波の振動が俺の身を包んだ。棺桶のようなカプセルの中で横たわる俺は、まるで動物実験の被害者にでもなった気分でいっぱいだった。

「テスト開始」

俺は静かに呟く。それから頭の中にパルス信号が鳴り響いた。音の塊。高周波の叫び。今、俺の深層心理が電子によって現実へと引き上げられているのだろう。
心という曖昧な存在がパルスによって定義付けられ、電子が架空の存在を構築している。電子的な映像が俺の意識にスライドインする。
それから夢を見ているかのような意識の昏迷状態に陥った。夢と現実の狭間、曖昧な線引きのど真ん中に俺は立っている。響くパルスが一層強く泣き出した。俺の聴覚をめちゃくちゃに跳ね回っている。開いている眼に幻想のような幾重科学模様が揺れ現れた。
 転入成功。次、夢想バイナリと深層心理の電子結合だ。パルス音がビートを刻む。俺の心臓の音がそれに重なる。俺は電子の一部になっている。意識も夢も深層心理も、すべてが統一されて夢想バイナリに再構築されているのだ。
 一度の瞬きで、世界が変わる。見渡す限りの白い世界。そして俺は俺が誰だか判らなくなった。ここに存在しているのは、一個の意識と無限に広がる夢想の世界。

「接続終了よ。夢想バイナリを楽しんで」
 その声が聞こえた瞬間に、俺は自意識を失った。

めくるめく白昼夢、意識をよぎる狂おしい程の孤独。俺は最後の一人なのだ。真の人間たるものの最後の個体なのだ。俺はふと空を仰ぎ見た。そこには人間を模した神がいると、信じていた。いや、信じているのではない、そこに神がいてくれと祈っていたのだ。
しかし、そこに神の姿はなかった。かわりに、あの忌々しい半人間が、歪んだ翼をはためかせて空を我が物にしている。空はもう、鳥たちのものではなくなっていた。そこは彼の、いや、彼らのものになっていたのだ。
俺は振り返った。そこに、何か救いがあると思ったから。だが、そこにも半人間がいただけだった。犬の遺伝子情報を自らのそれに書き加えた彼は、真っ赤な舌をぶら下げながら鼻を蠢かせ、毛むくじゃらの顔をこちらに向けて、俺の隣に立っている。

「やあ、久しぶり。なんだ、まだ君は人間なのか」

残念そうに彼は言った。
なんだ、まだ人間なのか、だと?
俺の意識の中に彼岸花のような赤い怒りの花弁が、さっと舞い踊る。俺は犬人間に向けてでたらめなののしりを叫んだ。呪いの言葉を、腹の底に飼うおぞましい化け物を、言の葉に乗せて彼の自尊をずたずたに引き裂こうとしたのである。言葉の中に五臓六腑より絞り出した悪意を込めたうえで。
 しかし、叫んでいる途中で俺は気付いた。叫びが音として彼に届いていないことを。犬人間はけらけらと笑っていた。彼の声は俺に聞こえる。しかし、俺のしたためた呪いが彼に届くことはない。

「それが人間の体の限界さ。人間の体は、これ以上の進化をしない。バイマン進化論が一世を風靡した事を忘れたのかい?」

ふざけるな! 俺の怒号が俺の意識の中だけで渦巻いた。人間を愚弄し嘲った彼を、犬人間をこの手で殺してやりたい。積りに積った殺人衝動が血流にのって、全身に充満してゆく。ほのかな高揚と、確かな殺意の感情が意識を支配して叫ぶのである。この畜生を殺せ、と。
俺の体は俺のものだ! 進化のない体でも何でもいい、俺の体を弄繰り回す権利は世界政府の物でなく――俺の物なのだ!
気付けば俺は目の前の犬人間の喉に手をかけていた。そうだ、こうすればこいつは黙る。簡単なことを何故俺は見落としていたのだろう。こいつは畜生なのだ。俺はそろそろと、喉笛を締め上げてゆく。
別に人間を殺しているわけでもない。みるみる内に、犬人間は苦しみを表情に浮かばせてゆく。甘美な眺めだ――俺は今にも鼻歌を歌い出しそうなほどに、喜びに満ちていた。犬人間の口の端から透明な唾液が滴り落ちる。とろりと垂れた液体が、俺の手に生温かさをもたらす。
なんとすがすがしい気分だろう! 恍惚にして歓喜の波が俺の意識に溢れ、とめどないオーガズムが脳味噌で歌い、快感を振り回す。犬人間の口の端からは泡が溢れていた。生臭い犬の唾液も、今の俺にとっては甘い蜂蜜のようなものに過ぎなかった。
そうだ、貴様ら半人間は死滅するが良い。自らの体に誇りを持てぬならば、自殺してしまえ。自殺こそが人間の持つ特権なのである。半分の人間を持っている内に、全てが畜生になる前に特権を行使するのだ!
死こそが全ての救済である。死んで俺の気持ちを満たしてくれ。犬人間の目玉が今にも破裂せんと言わんばかりに飛び出ている。今のお前の青白い苦痛の表情を写真で保存して、世界にばらまきたいものだ。タイトルは何にしようか。

「まったく、度し難い、変化を受け入れられないなんて」

 掌にあった犬人間の温もりと、喉笛の感触、獣臭と香水の入り混じった匂いが一瞬で消
えた。俺の掌は虚空を握り潰していたのである。犬人間のか細い苦しげな呼吸の代わりに、俺の驚愕の声があたりに飛び散って拡散した。同時に俺の血の気がさっと退き、からからに乾いた殺意だけが残った。
「僕たちは、半人間だが、確かな人間だよ。この耳、この鼻、この目、確かにこれらは人間ではなく、犬のものに酷似しているがね」
 まるで祈るような格好で虚空を握る俺の手を、犬人間が救いを与えるように両手で握る。俺は一歩もその場から動けなかった。何が起きているのか理解できていないこともさることながら、体が言う事を聞かない。俺の意識と俺の体がバラバラになっている。体という台の上に意識と映像が乗せられているような感覚が、俺の恐怖感の表面をちくちくと刺激していた。
「しかし、これらは紛れもない僕の細胞で出来ている。僕の細胞が書き加えられた遺伝子
情報を読み取って、健気に姿を変えただけなのさ。僕の体には犬の素晴らしい能力と、人間の英知が存在している」

 彼はそういうと微笑んだ。ちらと見えた犬歯が俺の意識を刈り取らんと、白く光る。
 人間の形をしていない畜生風情が、何を語り出しているのか――まるで神父のような表情を見せる犬人間を見据えた俺の意識の中で侮蔑が踊り、糞尿と区別がつかないほどの汚い感情をばら撒いている。
 人間の形をしていない時点でそれは人間ではない。ましてや故意に体を変態させたのだ。

「奇形児や達磨人間はどうなんだい? 彼らは俗に言う人間の形から逸脱しているようにも思わないのかい」

 確かに彼らは人の形をしていない。だが、人間の定義は人格の有無にある。彼らは人格を持つから、彼らは人間だ。

「うん、その通り、解っているじゃないか。人間とは人格を持つから人間と呼ばれる。そして、僕も人格を持っている。だから僕も人間のはずだろう」

 微笑みのまま、犬人間が俺の顔に頭を寄せる。上等なシャンプーの香りがふわりと漂った。
 ふざけるな、お前らは望むべくして畜生の遺伝子を体に取り入れた。お前らの遺伝子情報の半分は動物のそれになっている。人格を持っていようが、どこまで論理を練ろうが、お前らは半人間のままなのだ。未来永劫、人間には戻れない。
作品名:カタルシスの孤独 作家名:kokokoko