海辺の女
彼の罹った人の好い若医者は、すまなそうに言った。いえ、検査には何も出ないんです、可笑しいところなんか一つも、まったく大丈夫なんです、そのはずなんです。どんな影も映りゃしないんです……。気の毒そうにおろおろとしながら、とにかく鎮痛剤を出してくれた。飲むと、痛みも目も頭もぼんやりとした。薬のお陰で辛くはなくなったが、惨めだった。じきに仕事も首になった。
彼は吠えながら、がんがんと頭を拳で殴りつけた。
この忌々しい痛み。ああ、薬を飲んでくればよかった、医者は日増しに強いのを選んで出してくれる。ああ、今夜に限って酷く痛む。きっと暴れるための頭を駄目にされるのを怖れているんだ、痛めつける場所が死んでしまうのを!
彼は叫びながら笑った。自分の頭蓋を執拗に苛めながら。
そして踏みしめた足元の砂を見た。
金のない時には、よく、土の上に画を描いたものだった。
石で、枝で。指で。
描いては消し描いては消し……。
彼は顔を歪ませて、止まらせていた足を再び動かしはじめた。
ゆっくりと、目の前の風景を惜しんだ。
描くことを欲し、願っただろう知らないすべてを惜しんだ。
と。
彼は、危うく、声を上げそうになった。
なんとなれば。
――女が。
一人の女が、海上へせり出た崖のような処へ、頼りなげに独り、立っていたからだ。
線の細い華奢な肩。
甘い潮風にその鮮やかな黒髪が泳ぐ。
対照的な、白い肌と白い服。
闇夜に慣れた男の眼に、女はやけにはっきり映っている。
はっと息を飲んだ彼は、一瞬間、女の美しく滑らかな首筋に見惚れた。
こちらに背を向けているから顔は判らないが、その後姿の何とたおやかで優美なこと。
やがて彼は遅ればせながら考える。
ああ、あれは、きっと、身投げだ……。
そう思うや否や。
間の抜けたことではあるが、男は、堪らず走り出していた。女を止めてやる為に。
「あんた!」
彼は、女の腕を掴もうとした。
自分が死のうとしていたことはさっぱり忘れて、彼は叫んでいた。
心のうちにほんの僅か残った、理性や正気といったものが、皮肉にもそんなことを彼にさせた――。
その刹那。
目の前の女をすり抜けて、彼は、転落した。
掴もうと伸ばした腕は、易々と幻の女を突き抜けた。
どす黒く闇を吸った海面が、みるみる広がって迫ってくる。
ああ。
ああ、俺は、落ちているのか。
落ちている。
懐かしい感覚だった。そのことにどこかで安堵していた。
万華鏡の目まぐるしさで世界が廻る。
海と空と星と。
荒々しく鋭い岩肌と、変わらずそこに立った女と。
身体が海に着く一瞬に、女が、こちらを見てにっこりと微笑んだ。逆さまに見上げても、その顔は美しかった。
不思議と見覚えのあるような、その面相。
なるほど、見覚えのあるはずだ――おかしな話だが、自分の顔にどことなく似ているのだ。その顔は懐かしかった。これまで何べんも、目にしてきた顔だった。かつて、自分の指先から現れてきた、それはすべてのものだった。すべてを集めて微笑みかけるものだった。彼は思わずそのままの恰好で手を伸ばし、かつて彼が描いた、すべてのものの女は、ただじっと、永遠に続くかと思える落下の数瞬に彼を見詰めていた。見詰め続けていた。静かに力強く微笑んでいた。いつまでも。
男の一声笑う声が、波の音に砕けながら漂った。あとにはただ、何事もなく、美しい夜が残るばかり――。
2003.7.14