海辺の女
海辺の女
1
刻は夜半。
三日月の照る薄い暗がりの中で、憑かれたように足は進んだ。
砂を踏む、ぐにゃりとしたやわっこい感触が生まれては消える。
吹けば消し飛ぶような紙月夜。紺青のそら。象牙の浜砂。どれをとっても鮮やかで、調和に満ちている。これだけ完璧な風景を前に、形容する言葉は無力だ。世界は精密に美しい。何にもまして、いま目にしているものたちは、完璧以上の完璧さをもって自分と対峙している。ひとつとして誤ったところがない。はじめから存在している過不足のない美。
青黒の、ざわめく波のように左右へ拡がった松林。その中で、まるで泳ぐように、溺れるように、空を掻き分けながら彼は歩いていた。
茶い木の干からびた鱗が、それぞれ好き勝手に、目茶苦茶な格好で生えている。鬼の角にも似た、そのさま。けれどもそれらは、一方では朱塗りの鳥居を思わせた。
夜気に凍てついた呼気が、外気に晒されたのどに爪を立てる。吸いこんだ冷たさは、痛みにも似て彼の身体を苦しめた。
時折砂に沈みながらも、二本の足は迷うこともなく淡々と前へ進む。のどは渇き、腹は空っぽのまま、苦い味を口の中に押し上げていた。もう三日は食べ物らしい物を口にしていない。その気にもならなかった。飲みこんでも身体が嫌がって吐き出してしまった。いまとなってはなけなしの金もここまでの路銀と消え、何を求めることも出来ない。
こんなところまで来てしまったのは、名残ゆえか、それとも、己にすらひた隠しにしてきた、浅ましい未練ゆえか。
破れた靴の底に、波打つ木の根がざらりと当たる。
彼は海へ行こうとしていた。己の命を絶つためにである。
2
考えた。同じことをもうずっと考えている。思っている。念じている。堂々巡りをしている。
いま、このとき、果たして俺の手の中に何があるだろう。今日まで生きてきて、俺がこの手にし得たものは。
心に答えるように、身体が口の端を曲げて彼自身をあざ笑う。何もありはしない、何もないさ、お前が手に入れたものなど。俺が手に入れたものなど!
彼は認める。自分にはもう何も残っていないことを。かつて自分の傍らに在り、何より大事に懐へ仕舞いこんでいたものは、この身を見捨てて去ってしまった。
いまとなっては、その喪失を嘆く気も、はや失せている。
果たして、あんなものが――あんなものが、自分の手足の延長とすら思えたものが、突然なくなってしまうことなどあり得るのか。
この手、この指、この何より忌々しい頭と言う奴を使って、俺はようやくこの世とのささやかな折合いをつけていた。それだのに――それが、あるときを境に、俺自身に牙を剥くようになっちまった。消えてなくなるのならまだしも、この身を怨むように苦しめるなど、一体誰が予期しえるだろう。この世では時折、現実でない天地が引っくり返る時がある。ただ、当人以外には誰もそのことに気がつかぬ。誰もが自分という窓を通して世界を見ている。
彼は、かすかによろめきながら、狂ったように吠え、その右腕を振り回し、したたか木に打ちつける。これまで何より頼り、頼んできた利き腕を虐げる。当たる。痩せさばらえた肌は薄い血をこぼし、腕は見る間に赤く腫れ上がった。
画。
俺を俺でいさせるもの。俺を生かすもの。俺を殺すもの。
自分に、巧いものを描く能がないなど端からわかっている。
俺の技量など高が知れている。
上等な紙も顔料も買えやしなかった。
巧くなろう、巧くなりたいと努めても、巧くなってやろうとは思わなかった。
ただ画を描くだけで、それだけで俺は心底幸福だった。
俺は画工ではない。それで飯が喰えなかろうと、人から莫迦にされようと構いやしない。
俺はただ、描くために生きていた。はっきりと分かっていたわけではなかったが、でもそうだった。描くために働いた、描くために喰い、描くために眠った。いつだってそれは俺の生きることの真ん中に居座っていた。幸福だった。そのために生きていた。
描くために。何も要りはしなかった。
それが有りさえすれば生きてゆけたのに。
だが、もう自分には、描けない。息をし、生きてはいるが、生きてゆく気になれぬ。どうして毎日を過ごす価値があると? それを吐き出す術も持たずに。
いっそ、名実ともに死んでしまった方がましだろうと、そう、思った。
彼はいま、海へと向かっている。前方に広がる波の音が、もうはっきりと聞き取れるようになった。
それは青く、底も見えないほど深い色を湛えて、彼の行く手に佇んでいることだろう。感情のない腕を広げて。
不気味な夜の中を泳ぐ。泳ぐ。沈みにゆくために泳ぐ。
自嘲的なその歩調。
ふと、周囲の松林が途切れる。
視界が僅かに明るくなったような気がした。
眼前に拡がるは空の蒼、海の藍。そのさ中に浮きあがる、無数の白い星々。
それらの調和、溶け合った様子。
男は少々呆然となる。
そこがあんまり美しい眺めをしていたから。
顔が歪んだ。
俺は、この風景を描けずに死んでゆくのだ。
眼前に横たわるすべてを通して、輝きの中にありとある後悔が見えた。
もうけっして彼の手を煩わすことのない、この世の、ありとある素晴らしいものが。
彼は知らずに泣いていた。視界がどうしようもなく滲んでくる。
凝った何かの塊が、幾つもいくつも胸から咽喉に這い上がってきた。
あれは、もうどれだけ前になるのか。
突然の出来事だった。
勤め先の問屋で、彼は梯子の上から落ちた。足場の木が腐っていたせいだった。
天井近くまで上っていた彼は、そうして強か頭を打ったのだ。
石畳の上へ。半日昏倒するほど。痛みはなかった――その前に意識が逃げた。痛みの奴は陰険だった。波のように寄せては消え、消えては押し寄せた。それが気にならぬほど小さいときもあれば、叫ぶほど強いときもあった。
彼は呻いた。長く、尾を引くように。
あのときの呆気ない苦しみ。思い出すまでもなく彼を苛むあの一日。
ああ、目眩が、眩暈がする。
彼は思わず足を止め、低く呻きながら額を押さえた。長く短く、じわじわと襲ってくる刺すような頭の痛み。まただ、また、また戻ってきた、おお、奪うために、俺から奪ってゆくために。
あの日から、描けなくなった。
紙の上に、筆を置く。又は、顔料の着いた指を置く。
そうすると途端に、世界は一変した。
白い平面に何かしらの色を乗せるということが、彼には出来なくなっていた。
それが黒だろうが赤だろうが青だろうが、どんな色でも同じこと。脳髄がゆれ、まっさらな画面の上に幻の化物どもが踊り始める。紙の上で歪んでゆく世界。
じきにそれは現実も脅かした。
渦をまく色彩。付きまとう影、影、形のない恐れ。頭の痛み。
紙を前にする度に、彼の肩は震えた。目の前のものに、何かを描こうとするたびに――たとえそれが何であろうと――同じことが起こった。いまや彼は、描くという行為自体に恐怖を感じている。それでも歯を喰いしばって描いた画は、ぜんぶ筆を離した瞬間に破り捨ててしまった。耐えられなかった。そのまま放っておくなど、到底出来なかった。
1
刻は夜半。
三日月の照る薄い暗がりの中で、憑かれたように足は進んだ。
砂を踏む、ぐにゃりとしたやわっこい感触が生まれては消える。
吹けば消し飛ぶような紙月夜。紺青のそら。象牙の浜砂。どれをとっても鮮やかで、調和に満ちている。これだけ完璧な風景を前に、形容する言葉は無力だ。世界は精密に美しい。何にもまして、いま目にしているものたちは、完璧以上の完璧さをもって自分と対峙している。ひとつとして誤ったところがない。はじめから存在している過不足のない美。
青黒の、ざわめく波のように左右へ拡がった松林。その中で、まるで泳ぐように、溺れるように、空を掻き分けながら彼は歩いていた。
茶い木の干からびた鱗が、それぞれ好き勝手に、目茶苦茶な格好で生えている。鬼の角にも似た、そのさま。けれどもそれらは、一方では朱塗りの鳥居を思わせた。
夜気に凍てついた呼気が、外気に晒されたのどに爪を立てる。吸いこんだ冷たさは、痛みにも似て彼の身体を苦しめた。
時折砂に沈みながらも、二本の足は迷うこともなく淡々と前へ進む。のどは渇き、腹は空っぽのまま、苦い味を口の中に押し上げていた。もう三日は食べ物らしい物を口にしていない。その気にもならなかった。飲みこんでも身体が嫌がって吐き出してしまった。いまとなってはなけなしの金もここまでの路銀と消え、何を求めることも出来ない。
こんなところまで来てしまったのは、名残ゆえか、それとも、己にすらひた隠しにしてきた、浅ましい未練ゆえか。
破れた靴の底に、波打つ木の根がざらりと当たる。
彼は海へ行こうとしていた。己の命を絶つためにである。
2
考えた。同じことをもうずっと考えている。思っている。念じている。堂々巡りをしている。
いま、このとき、果たして俺の手の中に何があるだろう。今日まで生きてきて、俺がこの手にし得たものは。
心に答えるように、身体が口の端を曲げて彼自身をあざ笑う。何もありはしない、何もないさ、お前が手に入れたものなど。俺が手に入れたものなど!
彼は認める。自分にはもう何も残っていないことを。かつて自分の傍らに在り、何より大事に懐へ仕舞いこんでいたものは、この身を見捨てて去ってしまった。
いまとなっては、その喪失を嘆く気も、はや失せている。
果たして、あんなものが――あんなものが、自分の手足の延長とすら思えたものが、突然なくなってしまうことなどあり得るのか。
この手、この指、この何より忌々しい頭と言う奴を使って、俺はようやくこの世とのささやかな折合いをつけていた。それだのに――それが、あるときを境に、俺自身に牙を剥くようになっちまった。消えてなくなるのならまだしも、この身を怨むように苦しめるなど、一体誰が予期しえるだろう。この世では時折、現実でない天地が引っくり返る時がある。ただ、当人以外には誰もそのことに気がつかぬ。誰もが自分という窓を通して世界を見ている。
彼は、かすかによろめきながら、狂ったように吠え、その右腕を振り回し、したたか木に打ちつける。これまで何より頼り、頼んできた利き腕を虐げる。当たる。痩せさばらえた肌は薄い血をこぼし、腕は見る間に赤く腫れ上がった。
画。
俺を俺でいさせるもの。俺を生かすもの。俺を殺すもの。
自分に、巧いものを描く能がないなど端からわかっている。
俺の技量など高が知れている。
上等な紙も顔料も買えやしなかった。
巧くなろう、巧くなりたいと努めても、巧くなってやろうとは思わなかった。
ただ画を描くだけで、それだけで俺は心底幸福だった。
俺は画工ではない。それで飯が喰えなかろうと、人から莫迦にされようと構いやしない。
俺はただ、描くために生きていた。はっきりと分かっていたわけではなかったが、でもそうだった。描くために働いた、描くために喰い、描くために眠った。いつだってそれは俺の生きることの真ん中に居座っていた。幸福だった。そのために生きていた。
描くために。何も要りはしなかった。
それが有りさえすれば生きてゆけたのに。
だが、もう自分には、描けない。息をし、生きてはいるが、生きてゆく気になれぬ。どうして毎日を過ごす価値があると? それを吐き出す術も持たずに。
いっそ、名実ともに死んでしまった方がましだろうと、そう、思った。
彼はいま、海へと向かっている。前方に広がる波の音が、もうはっきりと聞き取れるようになった。
それは青く、底も見えないほど深い色を湛えて、彼の行く手に佇んでいることだろう。感情のない腕を広げて。
不気味な夜の中を泳ぐ。泳ぐ。沈みにゆくために泳ぐ。
自嘲的なその歩調。
ふと、周囲の松林が途切れる。
視界が僅かに明るくなったような気がした。
眼前に拡がるは空の蒼、海の藍。そのさ中に浮きあがる、無数の白い星々。
それらの調和、溶け合った様子。
男は少々呆然となる。
そこがあんまり美しい眺めをしていたから。
顔が歪んだ。
俺は、この風景を描けずに死んでゆくのだ。
眼前に横たわるすべてを通して、輝きの中にありとある後悔が見えた。
もうけっして彼の手を煩わすことのない、この世の、ありとある素晴らしいものが。
彼は知らずに泣いていた。視界がどうしようもなく滲んでくる。
凝った何かの塊が、幾つもいくつも胸から咽喉に這い上がってきた。
あれは、もうどれだけ前になるのか。
突然の出来事だった。
勤め先の問屋で、彼は梯子の上から落ちた。足場の木が腐っていたせいだった。
天井近くまで上っていた彼は、そうして強か頭を打ったのだ。
石畳の上へ。半日昏倒するほど。痛みはなかった――その前に意識が逃げた。痛みの奴は陰険だった。波のように寄せては消え、消えては押し寄せた。それが気にならぬほど小さいときもあれば、叫ぶほど強いときもあった。
彼は呻いた。長く、尾を引くように。
あのときの呆気ない苦しみ。思い出すまでもなく彼を苛むあの一日。
ああ、目眩が、眩暈がする。
彼は思わず足を止め、低く呻きながら額を押さえた。長く短く、じわじわと襲ってくる刺すような頭の痛み。まただ、また、また戻ってきた、おお、奪うために、俺から奪ってゆくために。
あの日から、描けなくなった。
紙の上に、筆を置く。又は、顔料の着いた指を置く。
そうすると途端に、世界は一変した。
白い平面に何かしらの色を乗せるということが、彼には出来なくなっていた。
それが黒だろうが赤だろうが青だろうが、どんな色でも同じこと。脳髄がゆれ、まっさらな画面の上に幻の化物どもが踊り始める。紙の上で歪んでゆく世界。
じきにそれは現実も脅かした。
渦をまく色彩。付きまとう影、影、形のない恐れ。頭の痛み。
紙を前にする度に、彼の肩は震えた。目の前のものに、何かを描こうとするたびに――たとえそれが何であろうと――同じことが起こった。いまや彼は、描くという行為自体に恐怖を感じている。それでも歯を喰いしばって描いた画は、ぜんぶ筆を離した瞬間に破り捨ててしまった。耐えられなかった。そのまま放っておくなど、到底出来なかった。