かたつむりな娘
かたつむりな娘
いつもなら満員電車の隅で押し潰されているような僕だったが、今日ばかりは周囲の人を押しのけて前に出る。
軽快な音楽と熱を帯びた歓声。パーンという乾いたピストルの音。五月の空は快晴というわけではなかったけど、僕の心も自然に高揚してきた。
この時期に運動会が行なわれるのは珍しくないらしい。でも、梅雨入り直前だから去年のような雨による延期も多い。今年は平日の開催にはならなかったので、突然の腹痛で会社を休まなくて済んだ。
ビデオカメラを構えてファインダーを覗くと、小学二年生の子供達の中でも一際小さい女の子を捜す。由香は早生まれということもあってクラスでもダントツに背が低いのだ。
どうやら背の順に並んでいるらしく、一番前の列でちょこんと体育座りしているのが見えた。一年生が走っているのを眺めながら順番を待っている。その姿はやはりどこか不安げだった。
「ビリになるのがはずかしいの」
滅多に弱音を吐かない娘が消え入りそうな声で僕だけに告げた言葉を思い出す。
ママは学生時代バレー部で活躍したスポーツ少女だったが、由香の運動神経は万年帰宅部だったパパの遺伝子の影響を強く受けている。
子供の頃の僕も鈍足だったから”かめ”とか呼ばれていたけど、その血を受け継ぐ娘は”かたつむり”という二つ名を持っているらしい。
亀には童話の中で俊足の兎に勝利したという奇跡の一勝がある。でも、蝸牛にはそんな逸話すらたぶん存在しない。
でも由香は「かたつむりはかわいいからイヤじゃないよ」と言う。赤いランドセルにはカタツムリのキーホルダーまで付けている。きっとだからこそ、みんなからノロマだと笑われたくないんだ。
そんな娘に僕は「仕方ないよ、由香は小さいから」なんていう返事をしてしまった。「そうだよね」と微笑んだ由香の顔に一瞬だけ浮かんだ失望の色。それに気づいていたのに父親らしいことを言ってあげられなかった。
幼稚園の頃のかけっこでは順位がなかったが、この小学校では順位をつける。もちろん一年生の時はぶっちぎりの最下位。僕と同じように娘もこれから運動会や体育祭で何度も惨めな気持ちを味わっていくのだろうか。殻の中に閉じこもってしまう由香なんて想像したくない。
学校によってはみんなで手を繋いでゴールするなんてところもあったらしく、そういうのもいいかなと思ったりもしたけど、勝負に厳しい妻は「そんなの競争じゃない」と完全否定していた。
いよいよ出番となった二年生がぞろぞろと移動していく。スタートラインに立つ由香の緊張が伝わってくる。
でも、その視線がこちらに向いた時、ちょっとだけ笑ってくれたような気がした。
可愛さなら間違いなくトップになれるのに。残念ながら徒競争にそういう加算点は存在しない。
「用意!」という合図に合わせて、60メートル先のゴールを見据えた由香が直角の腕を前後にグイッと上げて前屈みに腰を沈める。
絶対に勝てないと分かっていても最初から諦めたりはしない。そういうところはママに似ている。
火薬の弾ける音からちょっと遅れて子供達が走り出す。
その時点で娘はすでに最後尾にいた。そして、その差はどんどん拡がっていく。
でも、必死に走り続ける。由香の世界は今最高速で加速している。
それでいい。
自分のペースで走ればいいんだ。
由香が一生懸命に頑張っていることをパパやママは知っているから。
口を真一文字に結んだ娘の顔をズームアップしていると、後ろから「頑張れーっ!」という妻の大きな声が聞こえてきて、僕も負けないくらいの声で応援した。
突然、歓声がどよめきに変わる。
カメラを少し動かすと、先頭を走っていた子が倒れていた。
どうやら派手に転んでしまったらしく、立ち上がれずに泣きだしている。
そのまま次々と後方の子に抜かれていき、ついには由香も追いつき、追い越した。
でもまだ女の子は動けない。
助けに行こうとしていた先生が途中で立ち止まっている。
「……マユミちゃんだね」
いつの間にか隣にいた妻がじっと前を見つめながら呟く。
「マユミちゃん?」
「あの泣いてる子。今は違うクラスだけど、幼稚園の時から由香の友達なの」
「そうか……」
それなら、こうなるのは当然だ。
僕達の娘はしゃがみ込んでいる女の子のところへ戻って声を掛け、小さな手を伸ばしていた。
由香は泣いている友達を放っておくなんて出来ない。
競争しているウサギが寝ていたら起こしてあげるような子なんだ。
「ああいう甘いところはパパに似たのよね」
妻がやわらかく苦笑する。
「そんなことないよ」
僕は気弱なだけのカメだった。由香みたいに優しくて強いカタツムリじゃない。
涙を拭いて起き上がった女の子は由香を置いて再び走り出した。
娘もその後を追ったが、もちろん追いつけるわけがない。
それでも最後まで全力で走った。
やっぱり今年もビリだった。でも、去年よりもたくさんの拍手が聞こえた。
僕も拍手したかったけど、この場面をどうしても記録しておきたかったから、画面がぼやけていても必死に由香の姿をカメラで追い続ける。
旗の後ろに並ぶのは三位までなので、娘はさっき転んだ子と話しながら自分達の席へと戻り、僕達に向かって大きく手を振ってから座った。
「なに泣いてるのよ、ほんと親バカね」
呆れたような声の方を向くと、妻が笑いながらハンカチを差し出し、なぜか僕にウインクしてくれた。