この手に短編集
大越生徒監
明治三十四年初夏、陸軍仙台地方幼年学校第二期生は、修学旅行と称して、米沢を経て山形地方へ向かった。
とはいっても、大部分が徒歩行軍である。険しい道を延々と歩く。
発案者は、幼年学校生徒監の大越兼吉大尉だった。彼が四十名余りの生徒達を率いて、先頭を歩いていた。始めは意気揚々としていた少年達だが、想像以上の厳しさに、足にはまめや靴擦れが出来、背嚢はどんどん重くなっていく。大尉は足を引きずって歩く者を一喝し、しゃがみ込む者を見れば素早く引き返して来て引き起こす。遅れる生徒を後ろから急きたてて、前へ後ろへとせわしなくきびきび活動していた。
大尉のその平素と変わらない足取りを、生徒達は一歩踏み出す毎に焼けるように痛むまめを堪えながら、恨めしげに見ていた。
お互いに零したい言葉は同じだが、決して口には出せない。うっかり口を開けば出てしまいそうになる弱音を呑み込んで歩く。
痛い、つらい、疲れた、といったことは、例え感じても口に出してはいけない。一言でも洩らそうものなら、すかさず大尉の雷が落ちるだろう。
先の清国との戦争に出征した大尉は、自分の隊に、苦難や不平について口に出すことを徹底的に禁じていた。口の端に載った言葉が部隊の士気にかかわる、ということを考えた上での訓示であり、このためもあってか、大尉の隊は随分と戦果を挙げたようだ。
以上のことから、教育職についてからも、彼は生徒達にこの方針を徹底していた。そして、彼に言わせれば、男子たるもの、特に軍人は、感情を表に出すべきではないし、むやみに口を開くものではない、ということだった。訓練中、とにかく不必要な言葉は一切禁止されていた。
その日は夕方まで歩き続け、宿泊予定地の寺院に着いた時には、すっかり陽が暮れていた。
生徒達は、やっと休めるとホッとして、いざ部屋に上がろうとしたが、靴を脱ぐのが怖くて、皆一瞬躊躇した。覚悟を決めて足から靴を外した者から、畳敷きの大部屋に上がり、倒れ込む。その後靴下を脱ぐには、さらに勇気がいった。
めいめいが声を上げて騒ぎながら、痛々しく汚れた靴下を剥がし、自分の足の惨状にげんなりしながら、潰れたまめや皮の剥けた傷に気休め程度の傷薬を塗る。それでも足はまだじんじん痛んだが、歩かなくてよくなった分、それよりも空腹感が勝ってきた。
暫くして寺の人が運んできた握り飯を食べ始める頃には、少年達にも気持ちの余裕が出てきて、めいめいに雑談を始めた。
「俺、もう無理だ」
握り飯を口に運ぶのを止め、それにじっと視線を落としながら、一人がぽつりと言った。隣で貪るように食べていた少年が、顔を上げる。
「なら、俺が食べようか」
飯の事じゃない、と彼――松井は言い、残りの握り飯にかぶりついた。
「まだ、半分も歩いていないんだろう? でも、こんな足で、明日から歩けっこないよ」
この足で、明日も歩く、と具体的な想像を促されて、一同は溜息を吐いた。
しかし、「俺も駄目だ」「もう靴は履けない」といくら言ってみたところで、どうしようもなかった。自分たちを率いているのはあの鬼生徒監、大越大尉なのだ。無理だと言えば一喝されるだろうし、絶対に決行するだろう。何せ、今日も大尉だけは最後まで平然としていたのだ。
「大尉殿は人間じゃないよ。つきあえるわけないよ」
と誰かが言った。一同がその言葉に頷きたい心持ちだったが、だからといって、それを本人に陳情する勇気のある者は、いない。
「土肥原、お前行って来いよ」
松井は、学年の優等筆頭株である、生徒長の土肥原に訴えた。彼なら教官うけもいいし、口も上手い。そして、頼んだことを嫌とは言わないお人好しの性格であることを、起居を共にして数年で把握した松井は、普段から土肥原に無理な頼み事をしていた。
土肥原は、少し考えるような仕草をしてから、にこやかに言った。
「大丈夫だろう。修学旅行だよ? 僕たちが死んだり、再起不能になるようなこと、教育の責任者がやるわけないと思う」
「そういう問題じゃないだろ」
松井は苦々しく思った。他の者も土肥原の妙に達観した態度に肩を落とした。
「そうだよなあ、大尉殿は俺達を立派に卒業させるために、訓練してくれてるんだし」
と一人、納得したように感嘆の声を上げたのは、松井の傍らにいた少年だった。
「簡単に納得するなよ、板垣。おめでたい奴だな」
「でも」
松井は彼の反駁を遮り、言った。
「お前、その足で明日も歩きたいのか? 酷い靴擦れじゃないか」
それは、と口ごもる板垣を見て、松井は何かを思いついた時のように面白そうに笑った。
「まあ、仕方ないよな、お前には、一番小さい寸法の靴でも大きいんだろうからなあ」
声を上げて笑う松井のからかいに、板垣は真っ赤になった。
「大きいもんか!」
板垣が学年一背が小さい事も、それを誰かがからかうのもいつもの事だったので、生徒達は苦笑しつつも我関せず、と休む支度を始めた。土肥原などは、いつのまにやらちゃっかりと、すでに布団の中に潜り込んでしまっている。
「こんな傷、なんだ! 俺はお前と違って、明日歩くのだって全然平気だ、見ていろよ!」
そう言って、板垣は勢いよく立ち上がり、わざと両足を踏みしめて部屋を出た。ひいてきた痛みがぶり返してきて涙が出そうになったが、我慢して廊下を歩く。
かっかしたときは、一人になって頭を冷やした方がいい。怒りの相手が目の前にいると、歯止めが利かなくなって、冷静になれなくなって、絶対に後悔する、と今までの経験から身にしみている。とりあえず部屋を離れたが、初めてのところで勝手も分からずにいると、少し先に明かりの漏れている部屋が見えた。
寺の人の居室だ、と思い引き返そうとしたとき、部屋の中から聞き覚えのある咳きの音がした。
(大越大尉だ)
板垣はそっと、近づいてみた。襖が少し開いていて、そこから明かりが漏れている。そして、その隙間から、中の様子が垣間見られた。
何をしているのだろう、と板垣は訝しんだ。大尉は畳に背中を丸め、膝を曲げて座り込んでいる。
どこかで見た格好だ、と思えば、さっきまで部屋で皆がやっていた格好だった。膝を曲げ、足を引き寄せて、傷口に薬を塗り、傷絆創膏を貼る。
のぞき込む角度を変えると、大尉の足が見えた。
自分と同じような、いや、もっと酷いかも知れない、足のまめ。
見てはいけないようなものを見てしまった気がして、板垣はそっと部屋に戻った。
大尉は、あんなにきびきびと歩いていたのに。
自分は、今こうやって立っているだけでも痛むのに。
その夜は胸が高鳴って、疲れているはずなのに、なかなか寝付けなかった。
結局、次の日の朝、一同は覚悟を決めて靴を履いた。
早朝の体操で庭に出たとき、板垣は大尉の足元が気になって仕方がなかった。
その足取りは、いつもと変わらない。昨日見たような酷い怪我をしているとは、思えなかった。
その日の行軍中、ついつい足をかばう動きになる生徒達に、大尉は一喝した。
「痛いと思うから、痛いのである。それぐらい、どうということは無いと思って、思い切り足を使ってみろ!」
かっこいいと思った。
自分もあんな風になれるだろうか。