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ながら作業

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 開封されたばかりの煎餅の袋が、絶え間なくガサガサと音を立てていた。一枚、また一枚と中身は着々と減っている。減らしている人物は、くっきり二重の目を新聞の字面から離そうともせず、ながら読みに没頭していた。
 最後の一枚を食べ終えたことにも気付かずに袋に入れられた手が、乾燥材を掴んだところでぱたりと止まった。視線が新聞を離れ、煎餅の袋に移る。

「あれ、なくなってる……」

 さっきまで自分がバリッボリッといい音をさせて噛み砕いていたことなど、忘れ去ったような言いようだ。誰を責めているわけでもないのだろうが、空になった袋を切なそうに見つめて、翠(みどり)は隣に座る恵美(えみ)を見た。
 折り畳み式ポータブルゲーム機を消音にして、カタカタと小さなボタンを押す音だけがする。その音が止み、恵美はふっと画面から顔を上げて横を見た。
 翠は何も言わなかったが、彼女の目が何かを訴えていると感じた恵美は、
「食べてないよー。あたし」目が合ったと同時に首を横に振り、言った。
 だよね、と翠は呟いて、再び活字の世界に入っていく。

 入ってしまえば、煎餅のことなどすぐに忘れてしまうのだから、初めから食べなきゃいいのに、と恵美はいつも思う。なくなったら中断されるんだから、読む時は読むことに集中すればいいのに、と。翠曰く、菓子の袋を開けて食べ始めると、食べているだけというのがもったいなくて、何かしら読むものを探してしまうのだそうだ。だから、読むことを先に始めれば食べなくても済むけれど、食べることを先に始めると中断せざるおえない状況になってしまうのだ。
 どれだけの量を食べているかわからないなんて、恐ろしい行為だと恵美は常日頃から思っていた。でも、翠は我関せずで、ながら読みをやめる気は全くないらしい。
 ゲームにすればいいのに。両手が塞がるから、食べる暇なんてないんだから。

 大きな伸びをして翠が立ち上がる。一通り読み終えた新聞は、無造作にたたまれてテーブルの上に置き去りにされた。
「コーヒーでも、飲む?」
 欠伸を噛み殺しながら翠が訊くと、伝染したそれをもらって「あう――らぅむ」と怪しい言葉を発した恵美は、目を潤ませて、「へへっ、ごめん。うん、飲む」とはにかみながら言い直した。
 手際良くコーヒーメーカーをセットした翠は、スイッチを入れて冷蔵庫の中を物色しだした。蒸気が吹く音がして、ドリップコーヒーがいい香りを放っている。
 あれだけ煎餅を食べたのに、まだ食べるんだ……と呆れと感心を入り混ぜて、恵美は翠の行動を眼で追っていた。冷蔵庫の中を忙しなく動く翠の視線が、一か所に止まった。手前に置いてあった昨日の残りの焼きそばを片手に、その奥へもう一方の手を伸ばす。握られていたのは袋入りのチョコレートだった。

「コーヒーには、甘いものだな。恵美もどう?」
「遠慮します。デブ街道の散策を勝手に始めてんのよねー、あたしの身体」
 それほど思い悩んでいる風には聞こえない明るい声だった。
「そうか。ぶらぶら、歩いちゃってるか」
「うん。歩いてるだけならいいんだけど、そろそろ駆け足になりそう。全力疾走する前には止めないとねー。〝諦め〟っていうボーダーを越えたら、戻れない気がする――」両手で頬を包み、あー怖い、怖い、と大袈裟におどけてみせた。
「力いっぱい引っぱってあげるよ。ボーダーを越えそうになったら」
 クスクスと胸を動かしながら笑っている翠が、コーヒーをマグカップに注ぐ。湯気の立つ二つの不揃いなカップは、片方はミルクを入れる分を残して八分目、もう片方は飲み口まで一杯に黒い液体を蓄えていた。


「ねえ、超能力を一つだけ持てるとしたら、何がいい?」
 ゲーム機の電源を切りながら、恵美が訊いた。
 なに、それ? と翠。そんな事より――と言いたげに、ブラックコーヒーを前にチョコレートを袋から引っ張り出した。個包装されているそれを瞳にハートマークを浮かべて嬉しそうに開けた。もっと嬉しそうに口の中に放り込む。

「超能力?」二、三度口を動かして「何でもいいの?」と、翠は腕組みをした。
「一個だけだよ。欲張らずに、一つ」
 恵美はミルク入りのコーヒーをフーフー冷ましながら、人差指を立てた。ミルクを入れたがやはり熱い。舌を火傷して目を白黒させた前回の教訓で、しっかり冷めるのを待つことにしたのだ。

「――空を飛べる力がいいな」
「空を飛んで何がしたいの?」
「渋滞とかないでしょう? 電車やバスにも乗らなくていいし……」二つ目のチョコレートを口に入れ、「出勤、楽そう」と、翠は真面目な顔で頷いた。
 その答えに恵美は苦笑いして「夢がないよー。超能力を通勤手段だけに使うなんてー」と抗議した。そうか? と首を捻っている翠は、早くも三つ目のチョコレートを手にしていた。
「なんか、こう……。空を飛んで海外旅行とか。上空から優雅に男探しとか、さあ。ないのー? 夢のあるヤツ」
「海外旅行か……。飛行機チケットを買わなくていいね。安い時期を狙ってとか、税金がいくらになるとか気にしなくていいし」コーヒーが通過した翠ののど元が上下する。「でもさ、空にも国境があるよね。地図を頭に入れておかないと、行きたい所にも行けない。パスポートの提示をしなくても大丈夫なのかな? それ以前に、他国の領空権内に入った途端に撃ち殺されそう――」
 右手で偽拳銃を作り、バンッといささか頼りない銃声を擬音しながら、翠は恵美の胸を射ぬいた。

 現実的すぎる。もっとファンタジーな話なのに……パスポートとか領空権とかって、しかも殺された。それにさー、とまだ続く翠の話を呆れながら聞いていた恵美は、再びゲーム機に手を伸ばした。そんな恵美を尻目に、なんだか乗ってきた翠は身体を前のめりに話しだした。
「超能力は一つしか選べないなら、体力や力はこのままでしょう――あんまり高く飛んじゃうと凍え死ぬね。そんなに速くも飛べないだろうし、荷物も沢山運べないし、食べ物や飲み物も必要だし、汚い話……排泄も、ねえ」
 最後は歯切れが悪かったが、やっぱりどこまでも現実的だ。

 聞き役にまわることさえ放棄した恵美は、ゲーム機の画面から目も離さずに、「ねえ」とおうむ返しに応えた。
 そんなことには気にも留めず、翠は続ける。
「空から男探しって難しくない? どこを見て決めたらいいのよ」
 もういくつ目かわからなくなったチョコレートを頬張りながら、翠の視線は天井をさまよう。すっかり冷めたコーヒーを飲む恵美は、ゲーム機を睨んでいた。

「今のところ目の保養は間に合ってるし、そっちはいいや」
「あれ、翠。今、彼氏いたっけ? いや、目の保養ってことは見て楽しんでるだけって事か……」顔をあげた恵美は、赤い小さな個分け袋の山に目を瞠り「全部食べたの?」と、声を裏返した。
「ああ、うん?」チョコレートの袋を覗いて「ないね。全部食べちゃった」と歯をのぞかせた翠は、コーヒーもすっかり飲みきっていた。

 翠の身体は燃費が悪い。仕入れた燃料は全て喰いつくし、それでも足りないと言っている事がある。世間はエコに沸いている。翠が原油を消費するなら非難されること間違いなしだ。
作品名:ながら作業 作家名:珈琲喫茶