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香りを知らぬ

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 真っ白な橋桁に視線を落とし、丹色の柵の間をゆっくりと歩いていく。視界の端で水面が風に吹かれて波打っていた。通り抜ける向かい風は冷たく、肌を刺すようだった。歩む速度は段々と減速していく。ついに橋の半ばで立ち止まってしまった。背負っていたリュックサックがやけに重く感じる。もう一歩も前に進みたくなかった。
 美琴は半歩後ろに踏み出した。いっそこのまま戻ってしまおうか。そんな考えが頭をよぎる。そのまま身体を反転させた時、後方から声がかかった。
「美琴ー? どうかしたの?」
 振り返って見れば橋を渡りきった先、アーチを描くように重なった石階段の一番高いところで早紀がこちらに向かって手を振っていた。オーソドックスなセーラー服に身を包み、その上に白いカーディガンを羽織った美琴と同じスタイル。背の半ばまで伸ばされた黒髪は頭の高い位置で一つに括られ、時折肩の後ろで跳ねるのが見えていた。
 美琴は小さく溜息をつき再び身体を反転させた。両手でリュックサックの肩紐を掴んで背負い直し、小さく手を振り返した。早紀はそれを何もないととったのか、安心したように頷いて「先に進んでるよ」と言って進んでいった。
 彼女の後ろ姿が桜門の向こうに消えるのを待って美琴は再び溜息をついた。先ほどよりも深く。それでも一歩二歩と踏み出す。視線は自然と足下に落ちていた。こんなところには来たくなかった。こんなのただの時間の無駄じゃないか。公式の一つでも覚えた方がよっぽど有益だ。
 両側を木で飾った橋の終わりを抜けてその先、石造りの鳥居を通れば開けた空間。左手奥に絵馬堂があり、数十人の観光客の姿があった。その中にはセーラー服や、他の学校の制服もちらほらと見えている。右手には手水舎。こちらには十数人しかいなかった。
 美琴は手水舎をあえて通り過ぎ、そのまま桜門へと進んだ。通りざまに丹塗りの柱にそっと触れてみた。丁寧に塗られた丹色は不思議と触り心地が良かった。
 桜門を抜ければ四方を建物に囲われた空間。石畳の一本道が敷かれていて、真正面には本殿があった。観光客が何人も並んで、賽銭を入れて拝んでいた。やはり多くは修学旅行中の学生のようで制服姿が目立っている。列の間に早紀のポニーテールも見え隠れしていた。
 石畳を逸れて右前方に進む。本殿のすぐ右手、ブレザー姿の学生集団の隙間から木の柵に囲われて木が生えているのが見えた。いわゆるところの『飛梅』である。美琴は引き寄せられるようにそれに近付いていった。自然と思い出された言葉を呟いた。
「『東風ふかば、においおこせよ、梅の花、あるじなしとて、春な忘れそ』……だっけ」
 無実の罪で大宰府に左遷された道真公が、都の御所の梅に想いを残して詠んだ歌。そして主を慕った梅は一夜の内に大宰府に飛来したという『飛梅伝説』。初めてそれを知ったのは中学一年生の歴史の授業でだっただろうか。なんて滑稽な作り話なんだろうとそんな感想を抱いた気がする。梅の木がひとりでに移動するなんてまるでホラーじゃないかと。
 丁度学生集団が観賞を終えて移動を始め、飛梅の周りには人が少なくなっていた。柵のすぐ手前まで歩み寄って花の咲いていない梅を眺めた。梅の季節にはまだ少し早い。それも仕方のないことだった。受験シーズン直前の息抜きと合格祈願を兼ねた修学旅行なのだから。蕾さえ付けていない梅はどこか寒々しかったが、これはこれで悪くはないと思った。
 不意に、後方遠くから早紀の声。「美琴ー、集合写真撮るってさー! 早くこっちおいでー!」
 美琴は片手を上げて応えて踵を返した。数歩進んだところで、一度振り返って飛梅を見た。樹齢千年を越えるとされている白梅。もし花が咲いている季節に見たならば、道真公がこの梅を愛した理由が分かるのだろうか。
 先ほどまでの暗い心持ちがふっと軽くなった。どうしてなのかは自分では判別がつかなかったが、自然と微笑んでいた。
 後ろから再び早紀が呼んだ。美琴は後ろ髪を引かれるような気分でゆっくりと向きなおり、石畳の道の上で手招きしている早紀の方へと歩きだした。少しずつ速度を上げながら独り言のように小さく呟いた。
「さよなら。またね」
 今度はきっと梅の満開の時期に。
作品名:香りを知らぬ 作家名:庭床