ゴミ箱のスレイプニル
地下 下水道
僕は暗い下水道の中に座っていた。
座ってなお首を曲げないと頭が天井にぶつかる狭い空間。
湿ったカビ臭い空気は冷たい。ゆっくりとうねる波のように僕の体と心を冷やす。
前に突いた両手には固い床、流れる水が僕の指と手首あたりで分かれて支流を作り、僕の後ろで合流して本流になる。水がどこまでも流れる、どこまでも続く。
僕の前には、暗い中でも何故かそれだけ視える白い毛の生えた、ゆっくりと動く横長の物体……恐らくは生き物。
その物体に両手を重ね、膝を突いて体を預ける全身が肌色の……服を着ていない女の子。
女の子は体を隠そうとせず、横たわる白い生き物の全身の毛をさすり、声を掛けていた。
「大丈夫……スレイプニル」
僕は怖かった、それにこちらを意識しないすべすべの背中と丸いお尻に対し、目のやり所に困った。
女性は嫌いじゃない、むしろ好きだ。だけど、あからさまに見せられると、こちらが狼狽えてしまう。
スレイプニルと呼ばれた生き物は弱っているようだ。
巨体を横たわせたまま動かず、呼吸をしているのか体をかすかに膨らませて苦しげな音を発していた。
喉がむず痒くなるようなビヒューという、破れた風船から空気が漏れるような息が聞こえる。
僕はどうしたらいいか分からなかった。
なるべく女の子の体を見ないように目の端で様子を伺っていると、女の子はスレイプニルの呼吸が楽になるように、両手で一生懸命に背中らしき箇所をさすっている。
白い動物が頭を振る、一抱えはある細長い頭に生えたたてがみが炎のように舞う。
太い柱のような首にも、人間ならば見事な長髪の白い毛が頭頂部から背中に沿って生えている。
座った馬のような姿をしている。
長い毛の中に手を入れた女の子は、首を両手で抱えるようにさすり、小声でしきりに話しかけていた。
この暗くて狭い洞窟のような下水道に引き込まれた僕を尻目に、スレイプニルの呼吸が落ち着くまでずっと、その小さな手で何度も何度も撫でていた。
白い正体不明な生き物の呼吸が落ち着いたのか、ようやく女の子は手を離し僕を見た。
僕は女の子とスレイプニルに見とれてしまっていた、正面向きになった女の子から僕は慌てて目を逸らす。
どう考えても非日常的な光景だ。
架空の生物のような生き物と、暗闇で真っ裸な女の子。
立ち振る舞いからして、向こうは服を着てないことなど気にしていない。
僕が照れるように目を逸らしたのは、この場所で女の子の機嫌を損ねたくないのと、もしこのまま恐ろしい目に逢ったり殺されたりしたら、いやらしい奴という一方的な印象を最期に残すことになる。
突然の状況に全く対応できていない僕にも、最低限のプライドはあった。
作品名:ゴミ箱のスレイプニル 作家名:夕雲 橙