自転車
ペダルを、踏み込む。
ぐんと負荷が掛かってタイヤが回り、風を切って進む身体。
さらさらと髪がなびく。
心地よい気温の中、ほのかに甘い香りがした。
「きもちいいねぇ」
後ろから弾むような声がかかる。
顔は見えないけれど、きっと笑っている。
ちらりと視線を横にやれば、夕日を映して流れる川。水面がきらきら光っている。
きれいだと思った。
この澄んだ空気。
やさしい景色。
それに、この耳に遠く近く響く声も。
「日向、聞いてる?」
「あ?なんだよ」
「もうすぐ文化祭だね。日向のクラス、演劇だっけ」
「おう。現代版シンデレラだ」
「現代版…って?」
「知らね。まだ台本見てねぇからな」
軽快に滑タイヤの音、しかし時折きいきいと軋む。
油を差して磨いてやらないと。
「健んとこは?」
「俺んとこはね、喫茶店」
蝉の声が聞こえた。
きっともうすぐ聞こえなくなる。夏の間は鬱陶しくて仕方がなかったのに、今はどこか切なく染みる声。
これが最後と、あらん限りに泣き叫ぶ。
「見においでよ。どうせ日向、当日は暇でしょ」
「あー……まあ、大道具だからなぁ」
「じゃあ決まり。サービスしてあげるね」
背中にじわじわと伝わる熱。
後ろから腹に回っている腕。
涼やかな風の中で、それだけがあたたかい。
そんなにくっつく必要はないと知りながら、肌寒くなりはじめたから。
だから、振り払わない。
「分かった、行くよ」
そう、先の約束をしながら。
今はただこの時間が長く続けばいいとも思っている。
またペダルを踏んだ。
こうやってどこまでもどこまでも、きらきら光る川べりの道を走っていけたら。
好きだよと、言えない言葉を口の中だけで呟く。
そしてため息に隠して吐き出した。