霊聴者
そこも力強く否定したいところだが、アルフレッドはもっとろくでもないことをほのめかしている。そっちを先に抗議しておく必要があるだろう。
「俺は見えないって再三言ってる」
その主張は、アルフレッドをさらに面白がらせるだけに終わった。
彼はにやにや笑いのまま、とんでもない判定をくだした。
「貴様ほど《見えてしまう》体質は珍しいぞ」
「勘弁してくれ」
「そろそろ認めたまえ、認めてくれたほうが我輩も楽ができる。なにしろ我輩は《聴こえる》だけでまったく《見えない》のでな。貴様の場合、《古い隣人たち》と生身の人間の区別がついていないのが不便だが」
不便だとか便利だとかそういう問題じゃない。
どういうわけだか、人ならぬなにかの音を聴くアルフレッド・ヘヴンズリィは、俺も同様の体質をそなえていると信じているのだ。
さらに困ったことに、アルフレッドは俺が《見える》らしいことをネタに、どうやら彼が関わる胡散臭い事件解決の助手にしたてあげようとしているようなのだ。
事実無根とは残念ながら言い切れない。一緒にいた誰も存在を憶えていない子供だとか、時代がかった服を着た貴婦人を、ひとけのない池のほとりや路地裏に見かけたことは、ある。だけどそればっかりは認めるわけにはいかない。実業家ノースワーズの息子は幽霊が見える、だなんてあまりに笑えない。
ここで見える見えないの話をはじめても水掛け論になるのは明白だ。だから俺は別の主張に切り替える。
「たとえ俺が見えたとしても、きみのように解決することはできないぜ。俺には対抗手段がないじゃないか」
《古い隣人たち》は刃物や弾丸が効くたぐいの相手ではない。これまでの経験ではそうだった。俺がまともに使いこなせるのはサーベルと短銃くらいのもので、それらは夜の住人たちには効力を持たない。対するアルフレッドは、手品のようにしか見えない奇妙な技術をいくつか行使できることを、俺は知っている。
ごくまっとうな事実を述べたつもりだったが、しかし、その瞬間アルフレッドから笑いがかき消えた。
対抗手段、と小さく口の中で繰り返したアルフレッドは、それきり笑顔を見せなかった。
■■■
翌日同級生の実家を一緒に訪れる約束をとりつけて、この日の訪問を終えることにした。
去り際に右手を差し出すと、アルフレッドは座ったまま面倒そうに握手を返した。玄関まで送ってくれる気はないらしい。夏の夕暮れのひとときに、ピアノの傍らから離れたくないのかもしれない。まあ、ぞんざいな扱いはいつものことだ。俺はそのままきびすを返した。
だが、ピアノ室から廊下の薄闇に出ようとしたところで、呼び止められた。
「ロジャー」
その声がえらく硬かったので、俺は立ち止まった。振り返ったが、アルフレッドはすでに天井を見ていて、表情は見えなかった。
「ダートマスへは、いつ戻る」
なんだそんなことか。
厳格な規律や、ロープの結び方や、艦隊戦の記録や、同窓の高貴な家柄の連中を思い出して少し憂鬱になった。
「八月の最後。ぎりぎりまでこっちにいるつもりだ」
「そうか」
それきり興味を失ったように、アルフレッドは安楽椅子の陰からひらひらと片手を振った。
来たときと同じように、螺旋階段の脇を通って玄関ホールへ出る。
「またのご来訪をお待ちしております」
モーガンが嫣然と微笑んで、金属枠で補強された重たい樫のドアを開けてくれた。俺は礼を言おうとして執事を見やり、そして息を呑んだ。
執事の顔に、女の姿がはっきりと重なって見えたからだ。
女の肌は薄青く、湖面のように静かで、それでいて引き込まれるような妖艶さを漂わせていた。
びっくりするほど美しかった。
だけど、自分の頬骨のあたりで、腱がぴくりと引きつるのを俺は感じた。ホールの気温が、さらに下がったようだった。
貴様ほど《見えてしまう》体質は珍しいぞ――
ついさっき聞いたアルフレッドの言葉が鮮明に蘇る。
俺はモーガンから強引に目を離した。そのまま視線を合わせないようにして、外套と帽子を受け取った。
ピアノが再び聞こえていた。濁った和音が、不安げな旋律を乱した。
背後で扉が重量のある音をたてて閉まると、街の雑音が一気に耳をいっぱいにした。
俺は知らずに息をついた。《こちら側》へ戻ってきたのだ。
空の端が少しずつ紫色になりかけ、薄い月が東の空にのぼっていた。母や姉たちはロンドンは空気が悪いとこぞって言うけれど、ヘヴンズリィ伯爵邸の中にくらべれば実にさわやかな夕暮れだ。目に見えるほど埃が舞っていて、どこかから腐ったようなにおいはしてくるが、それでもすがすがしい。
と同時に、ピアノが鳴っていなければ異様な静けさにつつまれる屋敷と、そこに残してきた友人のことを思った。昼の中にあっても、アルフレッドは夜になかば染まったようだった。
もし、もしも。
アルフレッドが完全に夜の世界に渡ろうとしたら、そのとき俺はどうするんだろう。
気がつくと俺は、モーガンの微笑を思い出していた。
執事の笑みは、半月のかたちをしていた。