象
事実、私は外から鍵のかかった病院で薬を待つだけの生活をしていた訳ですし、桃も自分で剥いて食べられません。
ですが、私にはちゃんと一人分の人権がありますから、たくさんのニンゲンが力任せに私を此処へ閉じ込めて、私が考えたり、思ったりすることを制限するようなことは本当は許されないことなのです。
貴方は私の言うことを信じてくれるでしょうか。
其れは私が今日三回目の薬を飲んだ時の事でした。
私は此処へ初めて来たときに私の担当になった医者を一度だけ見たことがあったのですが、一目見ただけで私はその医者が「よく嘘を吐くニンゲン」であることがわかっていました。
だから私はほとんど処方された薬を飲みませんでした。よく嘘を吐くニンゲンが考えた薬を飲むことは危険だと思ったからです。
けれど、付添いの看護婦は必ず私が薬をちゃんと飲んだかどうか舌の裏側までくまなく光を当てて調べるのです。
その為に私は薬を飲んだ後で、便所でできるだけ声を殺して薬をまるっきり吐き出してしまう様にしていました。私は其れが得意でした。
私は今晩も、何時もと同じ様に便所で薬を三錠吐き出して、洗面台でその口を漱いでいました。
その時です。
清潔な手拭で顔を拭おうと顔を上げて気づいたのですが、鏡の中に映る私の後ろに、象が居るのです。
私は最初、巡回に来た看護婦が立っていたかと思ったのです。でもやっぱり其れは象でした。
象と言っても其れは、動物園やテレビでよく見る、巨大な獣の様子ではありませんでした。ちょうど私と同じ位の背丈をした、ヒトの形をした象なのです。
私は驚いて脚が動きませんでした。一息に逃げようかという考えが過ぎったのですが、恐ろしさで足の裏がひたっと床に根を張ったように動かなくなってしまって、反対にまじまじとその象を見てしまうことになったのです。
その象は優しい目をしていました。服なんかは身に着けていないで、皮膚にはあの象らしい灰色の厚い皮からまばらに産毛をはやしています。其れだけであれば私は彼を、「象」ではなくて「象のようなニンゲン」といったかもしれません。
私が彼を「象」だというのはやはり、彼があの大きな耳と長い鼻を持っていたからでした。
象の顔の横には新聞紙を広げたように大きな耳と、顔の真ん中には腰の辺りほどまで垂れた長い鼻があったからです。
私は振り返って自分の後ろを探してみるのですが、やはり象は鏡の中だけに立っていました。棒立ちになって、じっと、皿に溜めた墨汁のようなふたつの目で此方を見詰めているのです。
ふいに、鳥の声が聞こえてきました。があ、があと重い木製の扉を開け閉めするような鳥の声でした。
私はおかしいと思いました。此処は病院の地下にあるはずの階で、鳥の声が聞こえてくるはずなんて無いのです。耳を澄ませてみると、其の声は鏡の中から聞こえてくる様でした。
私はもういちど鏡の中をのぞきました。鏡の中、象の脇あたりからのぞける奥の風景は、便所ではありませんでした。其処は森でした。しとしと細い雨の降る美しい森でした。
私は思わず鏡へ手を伸ばしました。気が付くと、其れはもう光を返す鏡ではなく、向こうの空間に広がる窓になっていました。
象は突然、私に向かって手招きを始めました。
象は私の心をまるっきり知っているのかと私は思いました。
なぜなら私はずっとこの病院に閉じ込められて、夜毎夜毎に外の世界を渇望していたからです。何度も何度も見張りの目を盗んで表へ出ようと思ったのですが、そのたびに見張りに見つかっては想いを阻まれていました。
私は象の眼を見つめました。私は直感で象が悪い存在ではないと感じました。私を外へ連れ出す為に、私を救おうとして、この窓の向こうから熱心に私を呼んでいるんだと思ったのです。
私はスリッパを脱いで洗面台に脚を掛けると、鏡の窓を潜って其方の世界へ入っていきました。
其処は誠に完全な森でした。濡れた木の葉と樹皮がにおい、低くには草とツタが茂って密やかに呼吸しています。見上げた空では、重い雲が雫をさらさらと零していました。私は象の隣を過ぎてそのまま森へ駆けてゆきました。
ですが、数歩進んだ瞬間に私は転んで、勢いがついていた為に顔から地面に倒れこんでしまいました。顔や脚、掌が、まるで紙をちぎったみたいに傷を負って血が出ていました。
その森は完全に奇怪な森でもありました。しだ草は鎖のように硬く棘だらけで意地悪に私を絡めとろうとするし、樹木は枝をまるで檻のように絡み合って伸ばし、奥へはナイフでも無ければ殆ど進めない有様であるのです。
また鳥の声が聞こえました。があ、があという鳴き声はさっきの平穏なものとは違って、獲物が近くにいることを仲間に伝えるような、突撃を始める尖兵が奏でる、けたたましい戦場のラッパのような響きでした。
私は一気に怖くなって、窓へ戻ろうと思いました。
手脚をずたずたに切りながら構わずに立ち上がると、歩いて窓のほうへ行きました。
さっきまでの場所にもう、象は居ませんでした。象は少し前まで私が立っていたところ、便所のある側に立って、あの目でこちらをじっと見つめているのです。
私はそんなことに構わず窓を潜ろうと思いました。
その時です。窓の前で象が、私と全く左右対称に動きはじめたのです。私が右手を上げたように象は左手を上げ、右膝を上げれば左膝を上げ、私が頭をもたげて窓を潜ろうとすると、象もこっちへ向かって窓を潜ろうとしてくるのです。
当然私は象の御影石みたいに硬い額にぶつかって、たまらずに後ろへまたひっくり返ってしまいました。下にある草が私の耳の後ろを深く切り裂きました。象も其れに会わせる様に便所で私の転んだ形態を模しています。
私はまた立ち上がって窓に手をかけますが、左手を上げれば象は右手を、右へ避けようとすれば象は同じ方に体をもたげてきます。象の体は馬鹿みたいに重くて、押し切ることもままなりません。とうとう私は息が続かなくなって、窓の前に立ち尽くしてしまいました。
雨はだんだん強く、重くなってきました。森は夜になろうとしています。
便所から象は、まるで二つの黒い満月のような眼で、ただ私をじっと、じっと其処から見つめるばかりなのでした。