狼の騎士
第六章「石狼の目覚め」【2】
フェルティアードが向かったのは医務室だった。まさかここが目的地だとは思わなかったゼルは、彼がこの扉に足を止め体を向けた時、部屋の名を示す壁の札と彼を二度も見直してしまった。
大貴族が拳で来訪を告げると、すぐに見覚えのある初老の男が出てきた。デュレイを訪ねた際、彼のことを教えてくれたあの医師だった。
「これは閣下殿。お待ちしておりました」
「あまりその呼び名を使ってくれるな。わたしはジルデリオンという階位の男に過ぎない」
医師はにこやかに微笑んで二人を招き入れた。彼は初めて聞く敬称を口にしたが、フェルティアードは別段気に障ったわけでもないようだった。むしろ気恥ずかしがるような、その名を呼ばれるのに困っているような、その唇ははにかみにも見える形に動いていた。
「おや、きみはあの時来てくれた子だね」
フェルティアードの後ろにいた青年を、彼はちゃんと記憶していた。ゼルははい、と頷いて答える。
白い上衣を羽織った医師は、しばらくのあいだゼルが横になっていた寝台の列を通り過ぎていった。作り付けの棚や台で作業をしている人の中には、ゼルの担当だった男もいた。
「心配をかけてすまなかったね。事情が事情で、特にきみには教えたくなかったんだ」
案内する彼は、一般の患者が入ることのないよう注意書きされた、奥まった扉の一つを開け放つ。わたしだ、入るよ、と呼びかけながら、医師は中へと進んでいった。
狭い室内には寝床が二つ並んでおり、それぞれは薄絹で隔てられるようになっていた。手前のものの布は取り払われ、その向こう側を遮る一枚布には、うっすらと影が映りこんでいた。
まさか、あそこにいるのは。先行く医師のあとを追うゼルの歩く速度は、いつしか彼を追い抜きそうになっていた。すぐ隣を、一歩前ほどを歩いていたフェルティアードは、知らずのうちにゼルの後方へ移動していた。
「フロヴァンス君。お客さんをお連れしたよ」
合図代わりか、医師が布地を軽くたわませた。その裾に内側から指が添えられ、快い音と共にそれが引かれる。
「先生。お客さんって……」
久々に見た彼はやはりいい体格をしていたが、ほんの少しだけ痩せたように思えた。それでも、薄手の質素な寝巻きは若干窮屈そうだ。医師の肩越しにこちらを見つめる濃い青目は、死んだ人間にでも遭遇したかのように丸くなっていた。肩には、普段一つにまとめていた金髪が幾筋か流れている。
「え、あれ……。ゼル?」
医師が足音さえ消して下がり、ゼルは彼の全身を目に収めることができた。とはいっても、起こしていた上半身以下は真っ白な上掛けに隠れていたが。
「……デュレイ!」
己の体が前方へ倒れ込んだ。気持ちが先走って、脚のほうが遅れをとってしまったのだ。
耳元で上がった叫びも気にせず、ゼルは友人の体を抱きしめた。腕は背中にまで回せなかったが、力だけは一杯込めてやった。傷の程度もわからなかった彼が、確かに今ここにいる。今までと同じ、元気そうな姿で。
「よかった。安心したよデュレイ。ずっと心配だったんだ」
彼がゼルの命を救ったわけではない。大げさだが生死が不明だったのは、またもやデュレイのほうだった。だというのに、嬉しいという思いの流れる向きは逆転していた。
ゼルの行動に目を白黒させていたデュレイも、やっと落ち着きを取り戻して話し始める。
「おれも馬鹿なことしたからな。こっちこそずいぶん気に病ませたみたいで」
ゼルに触れようとしたデュレイの腕が、空中で硬直した。同時に、彼の口から痛みを訴える小さな悲鳴が漏れる。ゼルはすぐ身を起こすと、
「ごめん、どっか痛むとこ触っちゃったか?」
「いや、違うよ。大丈夫」
静止したままのデュレイの右腕を見つける。手首から短い袖の内側まで、白い細布が肌を埋め尽くして巻きついている。ゼルの脳裏に、決闘と“手術”の言葉が浮かんだ。
「その傷なんだがね」
再会を喜んでいた二人に、医師は詳細を語り始めた。この場で事態を知らないのはゼルだけらしい。フェルティアードはゼル達に近づきもせず、壁際に立ち腕を組んでいる。
「決闘での傷だけだったなら、もっと早くに帰せたんだ。でも治療する過程で、彼の腕にある腫瘍が見つかってね」
「腫瘍、って、病気があったってことですか?」
首を縦に振り、医師は続けた。
「幸い、大事には至らない大きさだった。それを彼の腕から取らなきゃならなくて、こうして予定より長引いてしまったんだ。しかし彼は幸運だよ。早くに見つかっていなかったら、腕を切り落とすことになっていたかもしれない」
「やめてくださいよ先生。そうならなかったからいいけど、何度聞いてもぞっとするんですから」
からからと笑い合うデュレイと医師だったが、初耳だったゼルは腹の底が冷えるかと思った。兵士でなくとも、腕を失くすなんて冗談じゃない。
「自覚症状がほとんどないのも、発見が遅れる一因だからね」
「そう言われてみれば、時々痛むこともあったけど、ちょっと腕をぶつけたり荷物を運んだりした時ぐらいだけだったな」
包帯の上から腕をなでながら、デュレイが呟いた。
「その点では、ある意味では彼に感謝しなくてはいけませんな」
眼鏡を押し上げ、医師は一人距離を置く男を見やった。気配に気付いたのか男は身じろぎしたが、剣の鞘も音を立てなかった。
「あなた様が彼を手にかけていなければ、さらなる絶望が彼に降りかかったいたでしょう」
親友を斬りつけた男が、ここではなんと救済者であった。医師の言うことも一理あるので、ゼルは頭から否定できない。デュレイの腕がなくなるかもしれなかったと思うと、なおさらだった。
フェルティアードのほうも、まさかこんなことを言われるとは予想していなかったようだ。姿勢を崩さず目を細め、医師を見返す。この時初めて大貴族の存在を知ったデュレイは、自分が睨まれていると誤解したのか、かすれた声を上げて固まってしまった。
「こんな時までわたしを持ち上げんでもいいのだぞ」
「いいえ、そんなつもりはございませんよ」
「フェ、フェルティアード卿!」
親しげな会話を中断させたものの、その声は怯えに満ちていた。医師が振り向き、フェルティアードは今度こそ発言者に――デュレイに目を向ける。
「その、先日は私の浅はかな決闘の申し出をお受けくださったうえ、結果的に我が身の病を見つけるに至ったことを感謝しております。どうか、数々のご無礼をお許しいただきたく存じます」
ぴんと伸ばした背筋は、棒でも差し込んでいるかのように真っ直ぐだ。上掛けの上の両手は、布がしわくちゃになるぐらいに握り締められている。フェルティアードはしかし、腕を解くと顔色を変えて詰問しだした。
「何を言う。侮辱に怒り剣を向けたのが浅はかだと言うのなら、おまえの友への想いはその程度ということだ。そんな男の相手をしたとなれば、わたしの面目が立たん。今ここで斬り殺すぞ」
詰め寄りながら得物を抜こうとするフェルティアードを、医師が必死になって押し留めた。彼の職業上、目の前で人斬りなどされたらたまったものではないだろう。言い返されたデュレイは、泣きそうになりながら「すみません!」と早口に謝罪した。