狼の騎士
後者の可能性は低そうだ。そうであったら大問題どころの話じゃない。性格は好きになれないけど、シャルモール卿から聞いた過去が本当なら、あの貴族は国を売るような真似はしないはずだ。
彼が敵兵に捕まったというなら、一緒にいた兵士やギレーノはどうなったのだろう。そこまで行き着くと、ゼルの背筋を冷たいものが駆け上がった。捕虜として価値があるのは指導者だけだ。ならばそれ以外は生かしても無用のもの。
(くそ……。じゃあこうなったら)
道なき道を進み始めたゼルに、二人は半歩遅れて慌てたように後に続いた。同行するためでなく、止めるために。
「お、おいゼル! 何するつもりだ!」
「見つかったら殺されるぞ!」
回り込んで押し留める仲間を、ゼルはやや乱暴にどけようとする。
「エリオ、きみは見たんだろ? 今ここに来ているベレンズ兵、全員を束ねる最高指揮官がとっ捕まったんだぞ。助けないでどうするっていうんだ」
「それはそうだけど、せめて陣営の誰かに伝えないと」
ギレーノ達の存在を口にしなかった辺り、エリオも最悪の事態を予想していたようだ。彼の申し出に逡巡した時、横でジュセが言葉を伴わず、引きつったように短く叫んだ。もしや気付かれていたのか。ゼルとエリオが前方に目をやると、そこには影が一本つっ立っていた。
そう錯覚したのも無理はない。その人間は緑にまぎれるためか、身に纏っている衣服はほとんどが黒やそれに近い緑色ばかりかった。長めの布で頭部をすっかり覆っている。口元も薄めの布地でふさいで目元しか露わにしていないのは、人相を隠すためか。首すらも見せないローブで体を包み、しかし腰の武器はゼル達に見せ付けているようだった。長さはないが、幅のあるわずかに湾曲した刃物。
味方でないのは姿からも明白だった。それ以上に、ささやかな木漏れ日も霞ませる空気が、三人を包んでいた。フェルティアードとは別格、いや別種のそれは地表を這い、無数に首をもたげ爛々と狙いをつけられている気がした。
「無駄だ。ひけ」
追いかけるのが無駄だということか? くぐもった声は単調で、まるで人でないようだった。これなら、フェルティアードの喋り方のほうがまだましである。少し踏み出そうとして、ゼルは自分の右手が剣の柄にかかっていることにやっと気付いた。この相手はどやら、自分と闘うことも無駄であるとも言ったらしい。
「おれはこの先に用があるんだ。どいてくれ」
ゼルは剣を抜かなかった。こちらは一戦交える気はないのだ。この男は、下手に触れれば攻撃をしてくるのはわかっている。意味もなく挑発しても不利だ。
こいつはどう出る? ただ道をふさいで行く手を阻むか、力ずくで押し返すのか。暗く沈む目は、対する青年が見えているのかどうかさえ怪しい。
「死に急ぐか。ならここで殺してやろう」
そう言うが早いか、男は腰の剣を抜き放った。微動だにしなかった痩躯が揺れ、それが疾走のための動きだと知った時には刃がうなりを上げて水平に振られている。そして長髪の青年の首に狙いを定め切り裂こうと突風の如く走った。
激音。肉を斬る音に代わって響いたそれと、寸前で武器を止めた小柄な兵に、黒衣の男は黒瞳を見開いた。しかし青年が片手で耐え切ることなどできず、次の瞬間にはゼルは大きくよろめいた。腕はおろか、衝撃は肩にまで上っていく。経験したことのない痛みに反射的に目をつぶったが、今ほどに隙を見せたら危険な状況はない。痺れる手に力を入れ、今一度碧眼に男を映ずる。
両隣にいたエリオとジュセも、戦意を露わにした男に対抗しようと、それぞれの得物を彼に向けていた。男はそれらに目もくれず、ゼルだけを攻撃目標にしているようだった。坂ではないが、傾斜のついた足場は悪く、相変わらず木の根が無遠慮にのたくっている。ただでさえ力の差がわかっているというのに。
男の剣が、叩き切るように空中を薙ぐ。その斬撃に巻き込まれまいと剣を振るうが、防戦一方のままだった。相手の隙が見つからない。見つけられないだけなのか。本当は攻撃できる箇所がわかっているのに、怖がっているだけじゃないのか。
男の目が、蔑むように細められた。
「あまり長々と遊んでいる時間はないんでな」
胴体に喰らいつこうとしていた刀身が、標的を変えた。今までと違う動作に、ゼルは腕を引いて応戦する。首でも胸でも、腕でもない。この男はどこを狙ってるんだ?
痺れは徐々に手に溜まり、袖に鉄塊でも仕込まれたかのように重い。疲弊させて、剣を落とさせるつもりだな。そして自分を追う気力を削ぐ気だ。
だがゼルのその考えは間違いであった。
相手の切っ先が、ゼルの手元にねじ込まれてきた。試験の際、剣を奪われた時の動きに似ていたが、あれは持ち手に一切の傷をつけないように配慮されていた。これは違う。裂傷を加えようとも構わず、ただ乱暴に得物をもぎ取ろうとしてくる。研ぎ澄まされた刃の部分が皮手袋を裂き、絡められた剣もろとも手首をねじられ、うめき声を上げたゼルは手を放さざるを得なかった。
払い落とされた剣が地面に突き刺さり、そばにいたジュセが飛び退く。ゼルは男を睨んだが、彼は己の武器を振りかぶっていた。
相手の剣を奪ったっていうのに、なぜこいつは攻撃をしてくるんだ。つかの間の思考停止が、落ちてきた一撃を避けるという行動に歯止めをかけていた。
「ゼル!」
強引に割って入ってきた影に押され、ゼルは後ずさった。同時に響く、刃同士がけずり合う音。
エリオだ。一対一の決闘ということで手を出していなかった彼が、とうとう傍観をやめたらしい。
よく考えれば、男もゼルも決闘の宣言などしていない。ベレンズの貴族や兵ならば暗黙の了解ともなることではあったが、この男はベレンズの者かどうかもわからない。たとえそうであっても、決闘の規則を遵守する人間ではないのだろう。その証拠に、彼は一方的に闘いを挑んできたではないか。
跳ね飛ばすには至らなかったものの、エリオは男の腕を大きく退かせた。いまいましげに渋面を作ると、彼は距離を取って静かに剣を収めた。
「おまえ達の容姿、しかとこの目に刻んだ。これ以上進めば命はない。応援を呼んでも同じだ。時を置かずして死ぬものと思え」
呼応するかのように、手袋と一緒に斬られた手の傷が疼いた。そう深くはないが、表面を取り付いて離れない、長引きそうな痛み。視線を落として傷の具合を見てから、その手を強めに抑えて男を見る。しかし、彼の姿はすでになかった。
「……どうする、ゼル。深追いだけは危険だと思うんだけど」
剣を鞘に戻し、エリオが振り返る。ゼルは、ジュセが引き抜いてくれた自分の得物を受け取ったところだった。折れてしまいそうな大きな傷はない。根元から先端までを丹念に見上げ、「よし」と呟くと抜き身を引っさげたまま歩き出した。
声もかけられなかった二人は、森の奥へと突き進むゼルに目を剥いた。
「ゼル! 死にに行くつもりか! あいつが言ったこと聞いただろ」
まず叫んだのはエリオだった。追走は避けるべきだと言ったそばから、友が単独行動をとろうとしているのだ。無理もない。
「ああ、聞いたよ。じゃあエリオは黙って陣に帰るのか?」