狼の騎士
「おれは残ります。自分で行くことを決めたんだ、人間だろうが獣だろうが、命を危険にさらす覚悟はできてる」
けれど、おれはそう簡単に諦めないからな。誰でもあんたの言いなりになると思ったら大間違いだ。
「いいや、残ることは許さん」
「あんたは兵士の一人も信じないのか!」
「戻れと言うのがわからんのか」
もう一言言わせれば、確実に大声になっただろうな。ゼルがそう読み取るぐらいに、フェルティアードの声は膨らんだ苛立ちを押さえ込んでいるように聞こえた。
「……失礼」
その引き金にしようと目論んでいた続きを、冷水を浴びせるように、しかし柔らかい物腰で遮ってきた者がいた。ゼルの肩にそっと手を乗せてきた彼は、フェルティアードから離れたところで控えていた、あの幹部兵だった。
「言いたいことはわかるよ。でも、今回はあの方に従っておいたほうがいい」
比較的歳が近そうに見えたからだろうか。大貴族をよく知った同年代の友に、的確な助言をもらったような気分だった。
「すみません……」
わざわざ割って入ってきた彼にまで、当たり散らす気にはなれなかった。謝りながらあんたに言ったんじゃないぞと、フェルティアードを睨んでやる。向こうは興味を失くしたように、ゼルを見てすらいなかった。
なりを潜めていた森のざわめきが、張り詰めた緊張をほぐしていく。フェルティアードは三人の兵についてくるよう合図し、まばらに散っていた新兵達のあいだを突っ切って、元敵陣へと引き返していった。若い幹部兵はそれを見送ると、ゼル達に陣営へ戻るよう言ってきた。
「フェルティアード卿の言われた通りだ。向こうでは自由にしてくれて構わないからね」
ここで拒んだところで、あの男が折れるわけがない。何より、眼前の彼の厚意を無下にしたくはなかった。
「あの、失礼ですが」
お名前を、と言い出すのに間が空いてしまった。その空白に、相手はゼルの意を読み取ったか、求めていた答えを口にしていた。
「ギレーノだ。そう呼んでくれて構わないよ」
「は、はい。私はジュオール・ゼレセアンといいます。騒ぎを起こしてしまってすみません、ギレーノさん」
様、と言うには、親しみやすさが強過ぎた。ギレーノはぽんとゼルの肩を叩き、
「気にしなくていいさ。きみは間違ったことは言ってないんだから」
悲しそうに目が細められていたのは、気のせいだったんだろうか。ギレーノはすぐにフェルティアードを振り返っていたため、そのわずかな変化を確認することはできなかった。
新兵だけの列は指導者にその背を見られることもなく、背の高い林に覆われすぐに見えなくなった。
彼らが襲われなければいいが。ギレーノは青年達を心配したが、敵がいた広場にさっさと行ってしまったフェルティアードを追いかけた。現時点では自分は、この大貴族の補佐役だ。彼が来るまでは実質的な隊の指導者だったものの、本来の長が来ればただの幹部に過ぎない。
逃げ出した兵は十人前後だと言っていた。その情報を全面的に信じてはいない。もし二十人とまでいくと、この人数ではきついものがある。
しかし、敵兵は火器を所持していなかった。銃を持っているのはギレーノとフェルティアードだけなのだが、扱いには長けている。剣にしても、かの大貴族なら一人で二人分以上の活躍をするだろう。
逃げ出したエアル兵は、フェルティアードの命を狙って近くに潜んでいるのか。それとも物資を求め移動したか。後者のことも考えて、ここでの探索も長くはできない。
ギレーノが、つれて来た兵士数人と指導者を目で追った。フェルティアードは湿っぽく光の少ない林に、半分以上入り込んでいる。部下を差し置いて一人で消える方でないのは知っている。わずかな手がかりも見逃すまいとしているのだ。
それはいいのだが、またあの三人が消えている。目の届かないところまで行かれると困るというのに。嘆息し、ギレーノと共に先頭を担った兵は全員いることを確認すると、やっと件の兵が二人、林の奥から出てきた。駆け足になっている。
「どうした。また遊んでいるんじゃないだろうな」
そう聞いて顔を見ると、見当たらないのは新兵を脅かしたあの兵ではなく、笑っていた二人の片方だった。
「も、申し上げます。敵兵が近くにいるようです」
聞き取る分には支障のない、だが息の切れた声がギレーノの耳朶を打った。見るからに険しい顔つきで、彼はその意味を問い詰めた。
「どういうことだ。まさかやられたのか」
「そのようです。私達が駆けつけた時には、サーディはもう……」
ここにはいない彼の名前か。唇を噛み損ねた歯が鳴り、顎を不快な振動が伝った。
「わかった、詳細はフェルティアード卿にも話してもらう。来るんだ」
踏み出した靴が、木製の何かをへし折ったらしい。固い音が柔らかい地面に吸い込まれた。ギレーノは構わず歩き、フェルティアードを大声で呼んだ。暗がりに包まれた外套がはためき、ただ一箇所光を失わない対の金が三人を振り返った。
「やはり、逃亡者は付近にいるようです。兵が一人やられました」
堂々としながら、嫌気がさすほどの威勢は感じさせない足取りで、フェルティアードは彼らの前に立った。ギレーノは仲介するように、彼と兵二人の様子を見届けられる位置に移動する。大貴族の背後は警護の兵が固めていた。
「敵の姿は見たのか」
「いいえ。彼と離れたほんの少しのあいだにやられたようです」
フェルティアードは二人の顔の上から、林の奥を覗いたようだった。
「そこまで案内できるか」
「はい、それはもちろん。……ですが」
言い淀んだ兵――悪ふざけした男に、ギレーノは訝しげに首を傾けた。何をためらうことがあるのか。フェルティアード卿を連れるのが、そんなに緊張するのだろうか。
「なんの問題がある」
「問題はございません。ただ」
へりくだった言葉を発していた口が、突如形を変えた。
「二度とベレンズには戻れませんが」
嘲笑。そう判断した途端、ギレーノは目にも見えず肌にも感じない風に吹かれたように全身をわななかせた。彼に追い討ちをかけたのは、大貴族の背から飛んできたくぐもった悲鳴だ。
その状況を最初に目の当たりにしたのは、当然ながら振り向いたフェルティアードだった。四人いた兵のうち三人は首筋から血を溢れさせ、最後の一人は今しがた、幅の広い短剣を頸部に突き刺されたところだった。すぐ後ろ、張り付くように立っていたエアル兵の手によって。
そこからのフェルティアードの動きは尋常ではなかった。剣を抜こうとギレーノが瞬きした直後には、彼の右手は柄を握り、刃さえ覗かせている。ギレーノの手はしかし、空中で動かなくなっていた。味方だったはずの兵の一人が腕を抑え、反らさせた首に短い刃を突きつけたのだ。
「動くな」
言ったのは、未だ下賎な笑いを浮かべるベレンズ兵だ。遅れて抜かれた剣が、ゆっくりと大貴族を照準に定める。先端のみを鞘に残した彼の得物は、凍らされたように硬直していた。
「大人しくついて来て貰いたい。下手に動くとこいつの喉に穴が開きますよ」
押し付けられた剣に、うっすらと赤いものが浮かび上がる。フェルティアードは無言で、握り締めていた武器を収めた。
「おれを殺さないのか」