狼の騎士
ゼルは気付いてたんだろうか。先に川を渡っていたおれが、徴兵でベレンズに向かっている人間だと。いや、おれはずっと背を向けていたんだ。わかるはずがない。おれはただの旅人で、ゼルはその旅人と子どもを救っただけだ。
「確かに、ゼレセアンは大きな夢を持っています。ですが、そのために私を助けたのではないと思っています。第一、私をベレンズに向かう兵だと特定する要素を、彼は私を助けるまで持ち得なかったはずです」
「そうか? 舟のこぎ手とおまえの話をしたかもしれんぞ。船頭というのはよく喋るからな」
そう言われて、デュレイは岸に着いた時のゼルの言葉を思い出した。そう言えばゼルはどこかに行くのか、と聞いた時、“きみと同じ場所”だと――ベレンズだと言っていた。つまり、ゼルはおれが、ゼル自身と同じ境遇にあることを知っていたんだ。
それじゃ、ゼルはやっぱり恩を売るために? その考えはしかしすぐに打ち消された。
「それもあり得ることでしょう。しかし、ゼレセアンはそんな男ではありません。彼には自分のことどころか、他人を気遣ってくれる優しさがあります」
「知り合って間もないというのに、ずいぶんと肩を持つのだな」
言い放つごとに、デュレイの足は少しずつ歩み出ていた。しかし彼は気付かず、さらに続ける。
「ゼレセアンはあなたの兵ではありませんか。なぜ彼をそのように言うのですか」
「知っているか、小僧」
ぞく、と脚が震えた。あらぬ疑いをかけられようとしている友をかばうためとはいえ、大貴族相手に進言し過ぎたみたいだ。デュレイがとっさに非礼を詫びようとしていたなど知らないフェルティアードは、緊張ではなく恐怖で動けなくなった彼に続きを投げかける。
「今の世には、高い位を得たいがために心にもない言葉を吐き、人に接する者がいるのだ。悪知恵ばかり働き、国や王、ましてやこの地に住まう人々のことなど考えず、己の立身出世しか頭にない愚か者がな」
瞬間、畏怖が激昂に変わった。
「ゼレセアンもそうだというのですか」
口を突いたのは怒気を孕んだ音だった。体の中心から末端へ、じわじわと占めていくものが生じたのは、思いがけず腹に響くまでの声量を出してしまったのが原因ではない。
手のひらと足先にたどり着いたそれは熱に変わっている。そのまま、冷え始めた空気に吐き出してしまいたかった。しかしそれを許すことはデュレイにとって、ゼルを軽んじられたことを無視するのと同じに思えたのだ。だからデュレイは、拳を握り締め地を踏み込んだ。そのせいで行き場を失った奔流が渦巻く。
「奴は夢を持っていると言ったな。それはなんだ。貴族になりたいとでもぬかしたか」
手袋を通しているのに、爪の硬さを感じる。やたらと脇を見たがる目を、強引に前に向かせた。
「彼は何よりも、村のことを想っているのです。村のために何かをしてやりたいと」
白鳥亭にいるあいだ、デュレイは友が抱く将来を詳しく聞いていた。騎士どころか貴族になるんだ、と言ってのけたゼルは、さらなる希望を口にしていた。未だ貴族による統治の手が及んでいないウェールの村を、自分の領にしたいと。
「理由はどうとでもなるだろう」
しかしフェルティアードはデュレイの弁明を一蹴し、会話を打ち切るように身を翻した。
「フェルティアード卿!」
それは怒号にも等しかった。まるで、この場に新たな三人目の人物が現れたかと思うほどに。名を叫ばれた男は金髪の青年に背を向けたまま、踏み出したばかりの足を止めた。
「いかにあなたが大貴族といえど、私の友人にそこまで言う権利はないはずです。ご自分の指揮下にあるというのに、あなたは彼のことをわかろうとなさらない」
反応らしき反応はなかった。ただ一つ、肩越しに睨んできた、静かな炎を灯した鈍い金の瞳以外は。
それを見ても、デュレイの中に恐れが再誕することはなかった。いや、恐れを知覚する隙間すらなかった。デュレイの思考を占めた感情は、既に“畏れ”の壁を突き破っていた。壁を越えた彼が対峙しているのは、貴族の最高位に座する者ではない。命を救ってくれた友を辱めた、一人の男に過ぎなかった。
「それなのに、彼を身勝手な人間だと決め付けるなど。……フェルティアード卿」
その男に対し友の名誉を取り返すため、デュレイは静かに、音の一つ一つを噛み締め、確実に宣言した。
「あなたに、決闘を申し込みたい」