狼の騎士
「ここ周辺の当番になっている衛兵と門番には、きみのことを言っておこう。声をかけられたり王宮を出る時には、その時計を兵に見せなさい」
下部についた突起を押し込むと、家紋らしき模様が彫られたふたが跳ね開き、文字盤が現れた。持ち歩ける時計を収めているのが、真っ黒になってしまった自分の皮手袋なのに気付いたが、素手で触れるのも気が引ける。
指先でつつくようにふたを閉じるのを見て、ローデル卿は少しぐらい汚れてもいい、と笑ってくれた。それでも、清潔とは言いがたいこの空間に、裸で置くわけにはいかない。そっと服のポケットにしまい、外に出て行くローデル卿に礼をした。
最初に時間を見た時は、刻限の十分ほど前だった。ランプの炎を吹き消し、手袋の汚れを払って戸を開けると、肌寒さも混じった新鮮な風が吹いてくる。そよ風がこんなに気持ちいいと感じるなんて、沈んだ空気に慣れ過ぎたらしい。
西の空がやや赤みがかっているのが、王宮の陰からかろうじて見える。予定より長引いてしまったが、ローデル卿が見回りの兵に言い伝えてあるらしいから、心配はないはずだ。
鍵をかけながら、ローデル卿が鍵について何も言わなかったことを思い出した。まさか彼がいつも管理しているのではないだろうから、これも衛兵に頼めばいいか。鍵を握り締め、すぐそばにそびえる宮殿に足を向けた時だった。
デュレイが向かおうとしていた、宮殿内部に繋がる扉が左右に押し開けられた。この時間では、衛兵か貴族しか残っていない。どちらにしろ、緊張で体がぎくしゃくし出したのに代わりはなかっただろう。
しかし、こちらに歩いてきた人物――いや、その人物が身に着けていたひときわ目を引く輝きは、デュレイの足を地面に縫い付けてしまっていた。
宮殿の陰りをものともせず、逆にそれらを糧として、その存在をしらしめているようにも錯覚する、深緑の一滴。
(フェルティアード卿……!)
薄く開いたまぶたから金色が覗き、デュレイの碧眼と重なる。洗練された見本のような足の運び以外で、大貴族が取った行動らしい行動はそれだけだった。それもたった一瞬のことで、両眼はすぐに金髪の青年を対象から外し、前だけを見据えている。
幸い、デュレイが固まってしまった位置は、フェルティアードの歩く線上ではなかった。それでも、石のように重い足を引きずり、後ろに下がる。実際には半歩も移動していなかったのだが。
ここを通って、フェルティアード卿はどこへ行くのだろう。第二書庫以外にも、剣の稽古をする場や宿舎などが、表の庭以上に広大な敷地に連なっている。自分の前を通り過ぎていく大貴族に頭を下げたところで、デュレイは出兵のことを思い出した。
「フェルティアード卿」
大きな声ではなかった。人の気配もなくこうも静かなら、そうする必要はなかったのだ。ただ、はっきりとした言葉にすることは忘れなかった。
芝生の鳴く音がやむ。黒髪のあいだから一点の光が現れ、ぐるりとデュレイの顔を捉えた。
「近く、戦地に参られるとお聞きしました。一介の兵の身ではありますが、私めもご健闘をお祈り致しております」
言い終えて頭を垂れたのは、礼儀に沿うためだけではなかった。細く鋭く刺し突いてくる視線を、受け続けることができなかったのだ。視界にかの大貴族はいないというのに、デュレイはしっかりと目を閉じていた。
かさり、と聞こえたのは草音。フェルティアード卿が歩き出したらしい。声の一言もかけられなかったのは少々腑に落ちなかったが、わざわざ立ち止まって聞いてもらえただけ良しと思わなければ。
大貴族からしたら、デュレイの激励など社交辞令にしか聞こえなかっただろう。そう思われていても構わない。真意が伝わることがなくとも、フェルティアード卿が戦い、無事帰還することを願っているのに、違いはないのだから。
「誰に聞いた」
目を開き直すだけに留まらず、デュレイは髪を激しく揺らせて顔を上げた。デュレイに対し真正面に向き直っている以外、フェルティアードは先ほどと変わらずにそこにいた。
デュレイにとって初めて聞くその声は、地を這うように重苦しく、抑揚がなかった。それがフェルティアードの普段のものとは知らない彼は、恐ろしく厳しい響きに感じたのだ。
「っ、私の、友人です。フェルティアード卿の指揮下におります」
喉の奥から引きつった声が漏れる。それを無理やり飲み込み、うまく回らない舌に台詞を乗せた。必死に平静を装っているせいか、そんなデュレイの焦りに気付いていないらしいフェルティアードは、畳み掛けるように質問を続ける。
「名は」
「ゼ、ゼレセアンです。ジュオール・ゼレセアンと」
「ゼレセアン……」
口元に手を当て、ふっと下を向いた大貴族を見て、デュレイの脳裏をゼルのとある質問がよぎった。
「ル・ウェールと言えば、おわかりになりますか?」
ゼルは、フェルティアード卿が出身地の名で呼んでくる、と言っていた。本人は嫌がっていたようだったが、この呼び名ならすぐわかるはずだ。何せ当の本人なのだから。
予想通りフェルティアードの口から、ああ、と納得するような声がこぼれた。
「おまえはル・ウェールの友人か。名は何という」
「はい。デュレイク・フロヴァンスと申します」
「おまえもウェールから来たのか」
デュレイにまた礼をする暇も与えず、フェルティアードは問いかけた。
「いえ、私はリクレアの者です」
「ではなぜ奴を友と呼ぶ」
まっとうな疑問であった。同じ、もしくは近隣の町ならまだしも、リクレアとウェールは気軽に行ける距離ではない。そんなに近いなら、フェルティアードもウェールという村を知っていただろう。
「彼は、私の恩人ですから」
髪の毛一本分すら目玉を動かせない。瞬きするのにも神経を使っていたが、“奴”という言葉にその集中が緩んでいた。
どう解釈しても、ゼルを指していたとしか思えない。おれに言ってないだけで、実はぶしつけな言動を取っていたのか? 気に障ることでもやらなければ、大貴族ともあろうフェルティアード卿が、こんな言い方はしないはずだ。
「恩人?」
デュレイは、ゼルと出会ったあの川での出来事を話し始めた。溺れている子どもを助けに行ったこと、そこにゼルが手助けに来てくれたことを。自分が溺れかけたところは、話を進めるのをためらってしまったが、これを話さなければ意味がない。ただ単に手伝っただけなら、ゼルのことを恩人とまで呼ぶことはないのだ。
「変わったやつだな」
いきさつを述べ終わったデュレイに投げかけられた声は、含み笑いを伴っていた。デュレイは心の中で首を傾げて、「そうでしょうか」と返す。
だが、本当は真っ向から否定したかった。危険もかえりみず、ゼルはあの小さな体で自分を抱えてくれた。目を覚ましてゼルと言葉を交わした時は、冗談交じりで重かったろう、なんて言ったが、本気で助けようとしていたからこそ、ゼルはがんばってくれたんだ。
「己と同じく、新たにベレンズの兵となる者を助けるとは、根回しのいいことだ。やつはそんなに高い地位を望んでいるのか?」
根回し? もしかしてフェルティアード卿は、ゼルは恩を売るためにおれを助けたと思ってるのか?