狼の騎士
「なんだい?」
せっかくなので、フェルティアード卿の居場所を、彼にも聞いてみようと思った。しかしゼルは、そこで言葉に詰まってしまった。彼の名を言おうとしたのだが、そういえば名前など聞いていなかった。向こうは自分の名を覚えていたようだったが。
突然質問するのもぶしつけな気がする。だが彼は、自分が発言するのを待っているはずだ。厳しさの欠片もない、彼の柔らかな笑みが、今のゼルにとっては重しになっていた。
「おっとそうか、きみはおれを知らないんだったな。おれはゲルベンスだ」
どう切り出そうか迷っていたゼルに助け舟を出したのは、そう名乗って素手を差し出してきた彼本人だった。
「ゲルベンスのヘリン・ディッツ。よろしくな、ゼレセアン君」
「あ、よろしくお願いします、ゲルベンス卿」
ゼルはその手をおそるおそる握ったが、ゲルベンスの方はがっちり力を込めてきたので、指の一本も動かせなかった。それに差が大きすぎて、自分の手など爪の先しか見えていない。にこにこと笑っている辺りから、これが彼の普段通りの力らしい。
「で、おれに何か?」
急用がある、と告げて口ごもったので、自分に聞きたいことがあると予想していたようだ。ゼルは手袋をはめなおしてから、ゲルベンスに顔を向けた。
「はい。実は今、フェルティアード卿を探しているんです。どこにおられるかご存知ではありませんか?」
「ああ、あいつなら確か、誰かに呼ばれたって言って、あっちのほうに行ったな」
と、ゲルベンスが指差したのは、ゼルが目指していた方とは正反対だった。当のフェルティアードはそこにいないのに、思わず彼の指先を目で追ってしまう。彼に会っていなかったら、またいない場所へ行くために体力を消耗するところだった。
今までは誰に聞いても、その情報の最後に「多分」とか「おそらく」とか、欲しくもない言葉がついて回った。ゲルベンスにはそれがなく、ゼルには確証に満ちた返答であると感じられた。
(そうか、この人はフェルティアード卿のことを)
なぜこんなにも信じられる気になるのか、ゼルも最初はわからなかった。その根拠がゲルベンスの、フェルティアードに対する台詞の中にあったことに気付いた。
「ありがとうございます、ゲルベンス卿」
そんなことに頭を使うよりも、ゼルは眼前の大貴族に礼を言うことを優先させた。一歩引いて、深く頭を下げる。
「あいつ自分の部屋にずっといることなんかないから、きみらも大変だろう。そうだ、ゼレセアン君」
はい、とゲルベンスと目を合わすと、彼はとびっきりの知恵が浮かんだとでも言うように、親指で自身を指した。
「あいつがどうにも見つからない時は、おれのとこに来て聞いてもいいぞ。おれもいつも部屋にいるわけじゃないが、フェルティアードよりはよっぽどいる方だ」
それを聞いて、ゼルはつかえていたものが外れたような、すっきりした気分になった。フェルティアード卿にたどり着く道は、今までは不安定だったが、この人のおかげでぶれることがなくなりそうだ。
「では、今後は是非そうさせて頂きます。重ねてお礼申し上げます、ゲルベンス卿」
また礼をすると、おいおい、と心底つまらなさそうな声が降ってきた。意識するより先に、鼓動が速くなる。さっきと何も変わらない礼をしたはずだが、何か間違えたのか。
姿勢を正そうにも、体はすっかり固まってしまっている。それにさらに追い討ちをかけたのは、頭部に降りた温かさだった。
「そうかしこまられるのは苦手なんだ。おれ自身と、フェルティアードの指揮下にいるやつにされるのが、特にな」
あの巨大な手が、自分の頭に乗せられている。それに気付いた途端、ゼルは平衡感覚を失って倒れ込むかと思った。前後左右、どの方向に倒れるかも、自分でわからないほどに。
「礼儀正しく気ぃ使うのもいいが、おれにはそこまでがちがちにならなくていいぞ。なあ、ゼル君」
がちがちにさせてるのはあなたです! とゼルは叫びたかったが、縮こまった舌では、それすらもかなわない。そのうえ、彼はデュレイやエリオのように、下の名前を短くして呼んできた。ここまでされては、この貴族が取りたがっている立場に報いる態度を示さなければ、逆に失礼というものだ。
だが、突然そんなことを言われても、すぐに切り替えられることなどできない。自力で硬直を振りほどき、やっとの思いでゲルベンスと視線を合わせると、
「こ、今後とも頼りにさせて頂きます」
ゼルはそう言うだけで精一杯だった。
その言葉から、ゼルなりに堅苦しさを排除したのが伝わったのか、ゲルベンスは笑って腰に手をやった。
「ありがとよ。いらん足止めを食わせちまったな。さ、行ってきな」
顎で合図をされ、ゼルは「失礼します」とゲルベンスに背を向け、廊下を駆けた。小さな背中が角を曲がって見えなくなると、彼もまたその場から去っていった。