惑星の記憶
ルージュの通う神学校は、町の中央にある教会のそばにある。あと数ヶ月でここを卒業する彼は、アカデミーに入学することになる。大理石で築かれた校舎は教会の資金で建てられたもので、授業料や講師の給料も、教会と、ヴァレンティスの自治政府が支払い、その資金はこの北大陸の西部を領土とする、アストリア王国全体で税という形で得ている。
朝から正午までの短い授業だが、この地域の文化を守り育て、国の発展を支える基盤であり、北大陸で最も信仰者の多い宗派であるクレアトゥールの布教にも大きく関わっている。
だが、彼はそんなことはどうでもいいと思っていた。もとより神学に興味が湧かず、このおとなしい少年の心は、法術という分野に傾いていた。法術は自然界の構成要素、光、闇、火、水、風、土といったものを、魔法によって解明しようとする学問で、錬金術などがこれにあたる。彼にとって神学校は、"法術師"になるための通過点でしかない。
今日も学校が終わり、市街地に住む友人たちと別れを言ってからは、先のサンディーの言いつけの為、自宅の前を通り過ぎて港の市場に向かった。自宅の近くではさほど意識しないが、市場では海風が直接髪をかき乱す。通りは人々でにぎわい、屋台には魚以外にも、塩漬けやマリネにしてある切り身、茹でた海老や貝などを竿秤とボールで量り売りなどもやっている。中でも目を引くのが、塩の量り売り。綺麗な円錐状に盛られた海の塩は、内陸地域では高値で取引される、ヴァレンティスのかくれた特産である。錬金術によって合成することもできるが、潮の香りまで合成することはできない。
「これと、これを一匹ずつ」
「おお、デュランの所の坊主か。おめぇの親父は漁に出たろ。戻るのは来週とか言ってたか」
「うん、帰ってもあと5回ぐらい行くだろうね。あ、あとこれも。まだ身がしまってないやつ」
「銅貨一枚だ。後の追加したやつはまけといてやるよ」
「ありがと、じゃあまた今度ね」
「おう、よろしくな」
ルージュは人ごみの中を、軽快な足どりで抜けていった。
その帰り、天気がとても良かったので、少し遠回りして海岸を通ることにした。そして、その砂浜に、もう見慣れて拾うこともなくなってしまった虹色の貝がらにまぎれて、奇妙なものが落ちていた。
打ち寄せる波の引き際に、それを手に取った。砂時計のような銀色の枠の中央に、ガラス玉が浮いていた。球面には細かな模様がびっしりと彫られているが、それが何を意味するのかルージュにはわからなかった。
「はい、魚。こんな感じでよかった?」
ルージュは木の皮に包んである魚を台所に置いて、包みを広げて見せた。
「ええ、いつも新しいのを選んできてくれて助かるわ」
「それより、これ。見て、海岸で拾ったんだけど」
海岸から左手に持ったままの物体を、サンディーに差し出した。
「何かしら。見たことないわねぇ。魔法の道具なの? 何か浮かんでいるけど」
サンディーは目を近づけた。
「僕も最初そう思ったんだけど、魔法具は杖とか、お守りとか、もっと分かりやすい形をしてるから」
「ええ。魔法具はもともと、ただの日用品に魔力を込めて、もとの使い道以外の使い方ができるようにしたものだから。そうでないとそれを使って魔法を引き出すことが出来ないものね」
「うーん。何に使うものか分からない道具から魔法の力を引き出すことは出来ないから、やっぱりそれはないか」
「でもルージュ。ここの球体が浮いているってことは、魔術を使っているわけでしょう? なにか使い道があるのよ、これには」
サンディーは物体の中央を指でつついた。
『そうだ、道具屋のじいさんなら知ってるかもしれない』
ルージュが毎日のように足を運んでいる道具屋があった。学校からの帰り道にいつも寄っていたので、店主のクラフトとは気の会う友人になっていた。
普段何気なく扉を押して入るこの店に、目的を持ってやってきたのは今日ぐらいのものかもしれない。扉の右上に取り付けられたベルが鳴った。
店内はうす暗く、杖や指輪や首飾り、そのような物が視界に飛び込んでくる。小さなカウンターを隔て、壮年の男が静かに座っていた。白髪の多い、ひげを生やした老人だ。
「物好きだな、お前も。お前ぐらいのものさ、毎日毎日何も買わずに店を出て行く奴は」
ルージュは答えるかわりに、壺の中に差してある杖をとって眺めた。
「なんだかここが落ち着くよ。広すぎず狭すぎず。見ていて飽きない」
「けっ。俺の店を何だと思ってやがる」
老人はパイプに火をつけた。それだけで店内は幾分と明るくなった。
「アカデミーに行くときは、今までの分たくさん買ってくからさ」
「ふむ。そん時はうちの一番の品をくれてやるよ」
老人は静かに煙をくゆらせた。
「ありがとう、おじいさん。ところでさ、見せたい物、いや、見て欲しい物があるんだ」
「何だ?」
老人はパイプを机に置いた。ルージュは例の物体を取り出して、机に置いた。
「ほう……」
老人はしわの深く刻まれた目蓋の奥から、目の前の少年にも劣らないほど澄んだ瞳をのぞかせた。
「それ……砂浜で拾ったんだ。打ち上げられてた」
「ううむ、方位磁石(コンパス)か」
「コンパス? それにしては針もないけど」
「こいつは、まさか。しかも浮いている……! ちょっと待ってろよ」
そう言うと、彼はカウンターの奥へ消えた。しばらく経つと階段の音がして、何やら分厚い革表紙の本を抱えて戻って来た。カウンターの上にちらばる小物類を荒っぽく端に追いやって、埃をかぶった本を広げた。その頁には、古びた栞が挟まっていた。
「この栞を挟んだ時、この本はまだアストリアの魔法院に保管されていたんだがな。ワシが向こうで考古学の真似事をやっとった頃だ」
その本は、古代遺物などの出土品を地質年代順に並べた、精密なスケッチ資料であった。
「これと同じ物があるの?」
「北大陸からは公式な記録で3つ。2つは壊れて動かないものだがな。いまはおそらくアストリアのパレミア博物館に1つと、北の大国エルドールに1つ。そして最後の1つは、これと同じように、動いていた。ほれ、中心の球体が浮いておるだろう?」
「そんなにすごいものなのか……」
ルージュの目の前にあるものが、一層輝きを増していくように思えた。
老人は続けた。
「動いていたそれは、ある"混乱"の中で消えたのさ。天暦で言うと、3895年だったか」
「混乱って、もしかしてクレアトゥール派勢力が既存の神話をもみ消すために古代史の研究を禁止した時の」
「そう。おそらくは教会が持っているはずだ。あるいは破壊したか。いずれにせよ、この魔法道具こそが神話の中に記されている伝説の秘宝……」
「はじまりの指針……」
ルージュが口を開いた。
「コンパスが動かなければ、伝説は伝説のままだ。だが、それが本当に伝説の聖地を指し示したとしたら……?」
「クレアトゥールの教えは全て否定されて、いや、それよりも伝説の聖地"コンラス・ウェル"を発見できるってこと?」
「これが本物ならな」
「本物かどうか、確かめられる?」