二人の休日
『二人の休日』
がくり、と頭が前のめりになった瞬間にはっとする。
目をしばたたいて手元を見ると、書類の文字は途中から何と書いているのか自分でもわからない有様。シャーペンでの下書きで助かった、と心の底から思った。
どうやら、というか確実にうたた寝を少しの間していたらしい。このところ帰りが毎日終電近いし、先週末は土日とも出勤したから通算10日ほど休んでいない。
当然疲れてはいるのだが、今は口が自然に笑いを形作った。わずかな眠りの中で見た、短い夢を思い出したから。
「何にやにやしてんだ、羽村」
そのタイミングで降ってきた声に、内心かなりうろたえた。顔を上げると、同じ営業部の、先輩社員の不審そうな表情。
「……あ、いえ何でも」
言いながら机の書類に集中するふりをするものの、不自然であるのは自分でも気づかざるを得なかった。顔には明らかに血が上っているようなほてりがあるし、ペン先の置きどころがとっさに定められない。
すると再び、今度は先ほどよりも近い距離から声が降ってくる。
「だいぶ疲れてんな。ま、仕事詰めたい気持ちもわかるけどな?」
その声音はなにやら面白がっているような調子で、直接見なくても、相手が含み笑いをしているだろうことがわかった。要するにからかわれているのだ。
「けどいいかげん代休取った方がいいと思うぞ。居眠りで処分食らったら奥さんも困るだろ? じゃな」
ぎょっとして振り返った時にはもう、相手の背中は廊下へと消えていた。得意先の数も営業成績も部内で一番の彼は非常に早足だ。まだ午後2時過ぎだが、あの調子だと今日も営業回りの後で直帰になるらしい。
……見られたのが先輩だったからよかったが、出張で留守の課長あたりが見ていたら、まず間違いなく呼び出しを食らうところだった。社会人、しかも3年目にもなって、学生のような叱られ方はさすがに避けたい。一度で処分は大げさにしても、万が一何度も重なれば、あり得ない話ではなくなるだろう。
確かにそろそろ代休を申請した方がよさそうだ、と自覚した。毎朝「無理しないでよ」としか言わないが、たぶん奈央子も気づいて心配しているだろうし。
と考えて、先ほど見ていた夢を柊はまた思い返した。
それは数日前、最近の中では早く帰れた夜の出来事。早いといっても10時は過ぎていたと思うが、奈央子は寝ずに出迎えてくれた。
『おかえり。ちょっと待ってて、キリのいいところまで編んじゃうから』
と言い置いてぱたぱたと戻っていった彼女を追って居間に入ると、早くもソファに座り直して編み針をせっせと動かす姿があった。
結婚後も教師の仕事を続けていた奈央子は、11月になると同時に産休に入った。以来、手が空いている時間はほぼ、そんなふうに編み物をしている。
小学生の頃から彼女は、友達へのプレゼント用に小物をいろいろ作っていたらしい。かなり以前の、ブローチだか髪留めだかをもらった姉がほめちぎっていた記憶がうっすらとある。ちなみに自分は編み物どころか、服のボタン付けすらまともにできない。中学時代の、家庭科の課題を毎回手伝わせた情けない記憶が、こちらははっきり残っている。
ともかく、昔から器用な奈央子は編み物のスピードも速く、2日ほどで子供用の靴下を完成させてしまった。そして彼女曰く「洗い替えと、子供が少し大きくなった時用」の、2足目以降の小さな靴下は今も増え続けている。何事にも丁寧で抜かりのない奈央子らしいというべきか。
けれどその時編んでいた物は靴下っぽくはなく、そもそも子供用にしては大きいように見えた。
『あれ、靴下編むのやめた?』
『え、ああこれ? 気づかれちゃったか」
なぜだか照れくさそうに笑うと、『気分転換用』と彼女は言った。
『同じ物ずっと編んでると飽きてくるから。で、まあ1月までなら時間もあるし、あんたのマフラーでも作っとこうかなーと思って』
という説明からすると、再来月の自分の誕生日プレゼント用らしかった。付き合い始めの頃に一度もらったきりだから、彼女の手作り品はずいぶん久しぶりだ。
嬉しいのだが、説明の一部分にちょっと引っかかりを覚え、つい聞き返してしまった。
『「でも」って何だよ。おれは子供のついでか?』
『うん、そう』
思わずぽかんとした自分の表情を見つめ、奈央子はぷっと吹き出した。
それに続いたくすくす笑いにちょっとだけムッとする気持ちを感じなくもなかったが、楽しげに手を動かす様子を見ていたら次第に、まぁいいかと思えてきた。何だかんだ言っても彼女が今作っているのは自分のための物で、子供の分は後回しなのだ。
などと考えた自分に、これでは子供にやきもちを焼いているみたいだと、思わず苦笑が浮かんだ。少し前には奈央子が情緒不安定で、子供に対する嫉妬心があったと打ち明けられた。それをなだめた自分が今度は同じようなことを考えるなんて。
幸い、集中していた奈央子には表情の変化をさとられなかったようだ。「キリのいいところ」までできたらしく、「よし」とつぶやいて編みかけのマフラーと道具をひとまとめに袋にしまった。だいぶ大きくなったお腹をかばいつつ立ち上がり、
『お待たせ、今からごはんあっためるから……どうかした?』
傍らを通り過ぎようとした奈央子が、こちらの視線に気づいて足を止めた。——ちょっとだけ、驚かせてやりたい。
小首をかしげて見上げる彼女の顔に、無言で自分の顔を近づけた。
数秒の間。
『——なに、いきなり』
『んー。なんか急にしたくなって』
『……ばかじゃないの』
目をわずかに見張り、次いでぶっきらぼうに言った奈央子が顔を背ける直前、頬をうっすら染めていたのは見逃さなかった。いくらか早足でキッチンに向かう背中にささやかな勝利感を覚えつつ、湧き上がった愛おしさで胸が満ちた。
結婚してもなお、キスぐらいで赤くなる彼女を、心の底から可愛いと思ったから。
がくり、と頭が前のめりになった瞬間にはっとする。
目をしばたたいて手元を見ると、書類の文字は途中から何と書いているのか自分でもわからない有様。シャーペンでの下書きで助かった、と心の底から思った。
どうやら、というか確実にうたた寝を少しの間していたらしい。このところ帰りが毎日終電近いし、先週末は土日とも出勤したから通算10日ほど休んでいない。
当然疲れてはいるのだが、今は口が自然に笑いを形作った。わずかな眠りの中で見た、短い夢を思い出したから。
「何にやにやしてんだ、羽村」
そのタイミングで降ってきた声に、内心かなりうろたえた。顔を上げると、同じ営業部の、先輩社員の不審そうな表情。
「……あ、いえ何でも」
言いながら机の書類に集中するふりをするものの、不自然であるのは自分でも気づかざるを得なかった。顔には明らかに血が上っているようなほてりがあるし、ペン先の置きどころがとっさに定められない。
すると再び、今度は先ほどよりも近い距離から声が降ってくる。
「だいぶ疲れてんな。ま、仕事詰めたい気持ちもわかるけどな?」
その声音はなにやら面白がっているような調子で、直接見なくても、相手が含み笑いをしているだろうことがわかった。要するにからかわれているのだ。
「けどいいかげん代休取った方がいいと思うぞ。居眠りで処分食らったら奥さんも困るだろ? じゃな」
ぎょっとして振り返った時にはもう、相手の背中は廊下へと消えていた。得意先の数も営業成績も部内で一番の彼は非常に早足だ。まだ午後2時過ぎだが、あの調子だと今日も営業回りの後で直帰になるらしい。
……見られたのが先輩だったからよかったが、出張で留守の課長あたりが見ていたら、まず間違いなく呼び出しを食らうところだった。社会人、しかも3年目にもなって、学生のような叱られ方はさすがに避けたい。一度で処分は大げさにしても、万が一何度も重なれば、あり得ない話ではなくなるだろう。
確かにそろそろ代休を申請した方がよさそうだ、と自覚した。毎朝「無理しないでよ」としか言わないが、たぶん奈央子も気づいて心配しているだろうし。
と考えて、先ほど見ていた夢を柊はまた思い返した。
それは数日前、最近の中では早く帰れた夜の出来事。早いといっても10時は過ぎていたと思うが、奈央子は寝ずに出迎えてくれた。
『おかえり。ちょっと待ってて、キリのいいところまで編んじゃうから』
と言い置いてぱたぱたと戻っていった彼女を追って居間に入ると、早くもソファに座り直して編み針をせっせと動かす姿があった。
結婚後も教師の仕事を続けていた奈央子は、11月になると同時に産休に入った。以来、手が空いている時間はほぼ、そんなふうに編み物をしている。
小学生の頃から彼女は、友達へのプレゼント用に小物をいろいろ作っていたらしい。かなり以前の、ブローチだか髪留めだかをもらった姉がほめちぎっていた記憶がうっすらとある。ちなみに自分は編み物どころか、服のボタン付けすらまともにできない。中学時代の、家庭科の課題を毎回手伝わせた情けない記憶が、こちらははっきり残っている。
ともかく、昔から器用な奈央子は編み物のスピードも速く、2日ほどで子供用の靴下を完成させてしまった。そして彼女曰く「洗い替えと、子供が少し大きくなった時用」の、2足目以降の小さな靴下は今も増え続けている。何事にも丁寧で抜かりのない奈央子らしいというべきか。
けれどその時編んでいた物は靴下っぽくはなく、そもそも子供用にしては大きいように見えた。
『あれ、靴下編むのやめた?』
『え、ああこれ? 気づかれちゃったか」
なぜだか照れくさそうに笑うと、『気分転換用』と彼女は言った。
『同じ物ずっと編んでると飽きてくるから。で、まあ1月までなら時間もあるし、あんたのマフラーでも作っとこうかなーと思って』
という説明からすると、再来月の自分の誕生日プレゼント用らしかった。付き合い始めの頃に一度もらったきりだから、彼女の手作り品はずいぶん久しぶりだ。
嬉しいのだが、説明の一部分にちょっと引っかかりを覚え、つい聞き返してしまった。
『「でも」って何だよ。おれは子供のついでか?』
『うん、そう』
思わずぽかんとした自分の表情を見つめ、奈央子はぷっと吹き出した。
それに続いたくすくす笑いにちょっとだけムッとする気持ちを感じなくもなかったが、楽しげに手を動かす様子を見ていたら次第に、まぁいいかと思えてきた。何だかんだ言っても彼女が今作っているのは自分のための物で、子供の分は後回しなのだ。
などと考えた自分に、これでは子供にやきもちを焼いているみたいだと、思わず苦笑が浮かんだ。少し前には奈央子が情緒不安定で、子供に対する嫉妬心があったと打ち明けられた。それをなだめた自分が今度は同じようなことを考えるなんて。
幸い、集中していた奈央子には表情の変化をさとられなかったようだ。「キリのいいところ」までできたらしく、「よし」とつぶやいて編みかけのマフラーと道具をひとまとめに袋にしまった。だいぶ大きくなったお腹をかばいつつ立ち上がり、
『お待たせ、今からごはんあっためるから……どうかした?』
傍らを通り過ぎようとした奈央子が、こちらの視線に気づいて足を止めた。——ちょっとだけ、驚かせてやりたい。
小首をかしげて見上げる彼女の顔に、無言で自分の顔を近づけた。
数秒の間。
『——なに、いきなり』
『んー。なんか急にしたくなって』
『……ばかじゃないの』
目をわずかに見張り、次いでぶっきらぼうに言った奈央子が顔を背ける直前、頬をうっすら染めていたのは見逃さなかった。いくらか早足でキッチンに向かう背中にささやかな勝利感を覚えつつ、湧き上がった愛おしさで胸が満ちた。
結婚してもなお、キスぐらいで赤くなる彼女を、心の底から可愛いと思ったから。