海の桜
それからも何度か彼はふらりと出て行って外で唄っていた。わたしはその度に彼のあとをつけ、陰から彼の唄うクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの「ハヴ・ユー・エヴァー・シーン・ザ・レイン」やジョン・レノンの「マザー」と聴いた。それから彼よりも先に家に帰り、ひっそりと泣いた。
ある夜、わたしは意を決して彼に言った。
「ねえ、また曲を作ってよ」
彼は鋭い目をこちらに向けてきた。それを見ただけでわたしは心が折れそうになったけれど、胸を張って言葉を続けた。
「あなたに曲を作ってほしいの」
「いやだ」
彼は即答した。わたしは彼の肩を掴んで揺すった。
「あなたの曲が聴きたいの。あなたの作った唄が聴きたいの」
「どうして俺のなんだよ。世の中には吐いて捨てても足りないほど音楽がある。俺のじゃなくたっていいじゃないか」
「違うわ。わたしはあなたが作ったわたしのための曲が聴きたいの」
彼はぎょっとした。わたしが彼に対してそういったわがままを言ったことなど、一度もなかったのだ。
「お前、何言ってんの?」
「わたし、今まで何もできなかったかもしれないけどずっとあなたのそばに居続けたわ」わたしは挫けずに続けた。「あなたがどれだけ荒れても、あなたのこと見捨てずに黙ってそばに居たでしょ?あなたが辛かった時もそばに居たでしょ?少しぐらい、その恩返しをしてくれてもいいんじゃないの?」
「別に頼んでねえよ」と彼は言った。「なんかの嫌がせか?何で今の俺に向かってそんなこと言うんだよ。意味わかんねえよ。わかった。出て行くよ、こっから。それでいいだろ?今までありがとな」
そう言って立ち上がろうとする彼の袖を掴んで引きずり倒した。
「全然よくないわよ。出て行くなら、わたしのために一曲作ってからにしてよ。その方があなたもすっきりすると思うわよ。女に後ろめたい気持ち残したまま去って行くのなんて気分悪いでしょ?」
彼はそれまでにない程凶暴な目でわたしを貫いた。わたしは負けずにその目を見返した。殴られてもいいと思った。それで彼が曲を作ってくれるのなら、安いものだった。けれど、彼は殴らずに目を伏せた。そして黙って部屋から出て行った。
彼が帰って来たのはそれから五日後だった。彼はギターを持っていた。駅前で唄うとき使っていた、あのギターだった。彼はそれを抱えて床の上に胡坐をかくと、わたしに一枚の紙を手渡した。
「書いてきたよ」と彼は言った。
見ると、紙には歌詞が書いてあった。彼はわたしに座って聴くように言った。
「いいか、一回しか唄わないからな」
そう言って彼はギターを弾き始めた。わたしは歌詞に目を落としながら、耳を澄ました。アルペジオがひどく哀しく聞こえた。そして、彼が軽く息を吸い、声が放たれた。
そこに立ってたんだ
人気のないまっさらな砂浜に
一本のさくらが
誰かに見つけてもらえるように
そこに立ってたんだ
そこで揺れてたんだ
光しかない真っ白な海面に
何枚もの花びらが
誰にも見つからないように
そこで揺れてたんだ
見上げるぼく 黙り込むきみ
見放すきみ 立ち尽くす ぼく
曲はちょうどサビに入るところだった。けれど、そこで彼は手を止めた。そして、弦を引きちぎってギターを床に叩きつけた。突然のことに、わたしは体を固くして怯えた
「お前が書かせたんだ」と彼は叫んだ。「こんな曲、書かせやがって。こんな曲唄わせやがって。くそったれが」
彼はわたしの手から歌詞を奪い取った。そしてそれをばらばらに引き裂いた。あっと言う間だった。わたしには止める隙すら与えられなかった。降り散る紙片が彼の唄ったさくらの花びらと重なった。泣きそうになった。けれど、彼の前では泣きたくなかった。わたしは彼をじっと見つめていた。彼はそんなわたしの目に気付き、うろたえた。彼の目には蜘蛛の巣のような赤い筋が何本も浮いていた。わたしは何も言わなかった。彼も、何も言えなかった。そして彼はまた出て行った。結局、彼は十分と家にいなかった。
そのあとすぐに、警察から電話があった。彼がアパート出たすぐそこの横断歩道で飛び出して車に轢かれたということだった。わたしは彼の運ばれた病院を聞いて、すぐに家を出た。
幸い、彼は左足を骨折しただけで済んだ。轢かれた時に頭を強く打ったようだったが、検査の結果、脳に異常はなかった。ベッドの上で足を吊っている彼に、わたしは訊ねた。
「死のうとしたの?」
彼はじっと目を閉じていた。寝ているわけではなかった。わたしは黙って待っていた。
「わからない」長い沈黙のあと、彼はそう言った。「普通に横断歩道で信号待ちしてたんだ。そしたら何で信号待ちしてるのかわかんなくなったんだよ。勢いよく部屋から出たけど、その時には頭は冷え切ってたんだ。けど、冷静に考えれば考えるほどそこで待ってる意味がわかんなくなって、気が付いたら赤信号の横断歩道を歩いてた」
その時、わたしは彼が書いてくれた曲のサビの部分の歌詞を思い出していた。あの後、わたしは苦労して歌詞の書かれた紙を繋ぎ合わせて読み直したのだ。曲の続きにはこう書かれてあった。
何もなかったんだ 何かがあったんだ
確かにあったんだ でもなかったんだ
振り返ったそこにあったのは
透明なぼくの影だけ
「なあ」と彼は言った。「この前唄った曲だけどな、お前のために書いたんじゃないんだよ。俺が書きたかったんだ。ごめんな。俺のために、ありがとう」
そこで、わたしは初めて泣いた。どうして人間はこんなに寂しいんだろうと思った。どうして人間はこんなに哀しいんだろうと思った。そんな彼の何もかもが、愛おしくてたまらなかった。ベッドから手が伸びてきて、わたしの手に重なった。
「退院したら、海に行こう」と彼は言った。
「うん」と言ってわたしは頷いた。その拍子に大粒の涙がごっそり落ちた。彼は私を見て笑った。わたしも笑ってるつもりだった。
「けど」と彼は言った。「砂浜にさくらは生えねえよなあ」
「残念だったね」とわたしは言った。