炎の女アン・ブーリン物語/ヘンリー8世と6人の妻
アンは自分が美人でないのをよく知っていた。
彼女の薬指の脇には、生まれつき指のように見える突起物があった。
今ではさして珍しくもない奇形の一種・多指病である。
それ自体も気になるのだが、もっと気にかかったのは幼い頃に無神経な乳母が口走った言葉だった。
「恐ろしい…これは悪魔の印です。気をつけねば、国を滅ぼすような人間になりますよ」
その言葉を聞いて、アンは傷つくより面白いと思った。
自分に本当に悪魔から国を滅ぼすような力を与えられていたらよかったのに…だが、幸か不幸か、アンはその容姿が
災いして、誰にも構ってもらえない目立たない少女だった。
時は16世紀、イングランド。
ふっくらした健康的な肉体と、明るいブルー・アイズと金髪が好まれた時代だった。
アンは鏡を近づけたり遠ざけたりして、まじまじ自分を観察した。
黒に近い濃い褐色の髪、黒い瞳。これで肌が白ければ、髪も瞳も引き立つだろうに、顔色は悪かった。
背も低くやせっぽちで、思春期になっても胸はさして膨らまなかった。
姉のメアリーは、明るい髪の色に明るい瞳だった。アンは家族の誰にも似ていなかった。
こんな娘を、外交官だった父のトマス・ブーリンは不憫に思い、フランス留学させることに決めた。
国王ヘンリー8世の妹メアリー王女がフランス王に嫁ぐ時、その侍女の中に加えてもらえるよう取りはからった。
フランスに渡ったメアリーとアン姉妹は、主であるメアリー王女が帰国した後も、フランス宮廷に残った。
宮廷はちょうど先王ルイ12世が亡くなり、フランソワ1世が即位したばかりだった。
若く華やいだフランス宮廷で、姉妹はのびのびと育った。
お年頃になったメアリー・ブーリンには、さっそく恋人ができたが、アンにはお声はかからなかった。
そのかわり、大好きなリュートやダンスを習い、上達していった。
どうせ容姿で周囲に劣るなら、何か一芸に秀でて目立ってやるつもりだった。
1522年、ようやくブーリン姉妹は帰国して、王妃キャサリンの侍女となった。
アンは相変わらず不美人であったが、多弁で会話がうまく、何より自信たっぷりの強気な態度が、英国男たちを圧倒した。
自分の欠点をうまく隠す技も身につけていた。
薬指の多指は、ドレスの袖を手の甲までかぶせることで、巧みに見えなくした。
ディズニーのアニメ白雪姫の中で、魔女の継母が着ていたあのドレスの形である。
尖った袖の先端が、中指のあたりに達していた。このドレスはけっこう流行ったので、アンの指は見事に隠されたのだった。
また、アンは体の何カ所かに大きなホクロがあった。
もっとも目立ったのは喉にあるホクロだった。これを隠すために、首に宝石つきのリボンを巻いた。
特にお気に入りなのが、自分の頭文字「B」をデザインした宝石をあしらったチョーカーだった。
やがてノーサンバーランド伯爵の息子、ヘンリー・パーシーと恋仲になって結婚を考えるようになった。
このまま何事もなければ、ヘンリー・パーシーを尻に敷いて、まずは平穏な一生を過ごしたかも知れないが、運命は、アンの乳母が予感したとおり動き始めていた。
ヘンリー8世は、このよくしゃべる女の軽快な話し声に惹かれた。
よく話し、よく笑い、合間にリュートを巧みに演奏して見せた。
ヘンリーはでかい図体を揺すりながら、何気なくアンの横に並んだ。
「おまえはリュートがうまいな。フランス仕込みか。」
アンは肩をすくめ、
「どこにいてもリュートは好きだったと思います。」
「ところで、おまえの姉のメアリー…ちっとも似ておらんな」
「姉ではなく、私が似ていないんでしょう。私は家族の誰にも似ていませんもの。」
何がおかしいのかヘンリーは大笑いして
「そうか!家族の誰にも似ていないのか!朕(わたし)と一緒だな!我々はウマが合いそうじゃないか」
ヘンリーはさっそくアンを口説いた。実はこの男、以前にアンの姉メアリー・ブーリンを口説いて愛人にしていた。
ヘンリー8世には厄介な癖があって、口説き落とすまではヒーロー気取りでお姫様を助けるようにお熱を上げるが、相手がなびいてベッドに入ったとたん、 「ただの女」に見えてしまうのだ。
そういった性質を姉から聞かされていたアンは、アホらしくて相手にしたくはなかった。何よりアンには愛するパーシーがい た。
もうすぐ2人は結婚するはずだった。ところがふられた腹いせか、ヘンリーはトーマス・ブーリンの直接の上司にあたるウールジー枢機卿に命じて、ノーサンバーランド伯に圧力をかけ、婚約をぶち壊してしまった。
その後パーシーは、以前縁談話のあったメアリー・タルボットという女性と無理矢理結婚させられた。
父親から、「アンと別れなければ廃嫡にする」と脅されたためだった。
パーシーは新妻とうまくいかず、胃の病気に苦しんだあげく、1536年の秋、短い一生を終えた。
アンはこのことを非常に恨み、ウールジーへの復讐を考えたほどだった。
夫がいるにもかかわらず、否、夫の出世のために、ヘンリーの誘惑に応じた姉のメアリーは、すでに飽きられていた。
今のヘンリーの眼中には、アンしかいなかった。
彼女の薬指の脇には、生まれつき指のように見える突起物があった。
今ではさして珍しくもない奇形の一種・多指病である。
それ自体も気になるのだが、もっと気にかかったのは幼い頃に無神経な乳母が口走った言葉だった。
「恐ろしい…これは悪魔の印です。気をつけねば、国を滅ぼすような人間になりますよ」
その言葉を聞いて、アンは傷つくより面白いと思った。
自分に本当に悪魔から国を滅ぼすような力を与えられていたらよかったのに…だが、幸か不幸か、アンはその容姿が
災いして、誰にも構ってもらえない目立たない少女だった。
時は16世紀、イングランド。
ふっくらした健康的な肉体と、明るいブルー・アイズと金髪が好まれた時代だった。
アンは鏡を近づけたり遠ざけたりして、まじまじ自分を観察した。
黒に近い濃い褐色の髪、黒い瞳。これで肌が白ければ、髪も瞳も引き立つだろうに、顔色は悪かった。
背も低くやせっぽちで、思春期になっても胸はさして膨らまなかった。
姉のメアリーは、明るい髪の色に明るい瞳だった。アンは家族の誰にも似ていなかった。
こんな娘を、外交官だった父のトマス・ブーリンは不憫に思い、フランス留学させることに決めた。
国王ヘンリー8世の妹メアリー王女がフランス王に嫁ぐ時、その侍女の中に加えてもらえるよう取りはからった。
フランスに渡ったメアリーとアン姉妹は、主であるメアリー王女が帰国した後も、フランス宮廷に残った。
宮廷はちょうど先王ルイ12世が亡くなり、フランソワ1世が即位したばかりだった。
若く華やいだフランス宮廷で、姉妹はのびのびと育った。
お年頃になったメアリー・ブーリンには、さっそく恋人ができたが、アンにはお声はかからなかった。
そのかわり、大好きなリュートやダンスを習い、上達していった。
どうせ容姿で周囲に劣るなら、何か一芸に秀でて目立ってやるつもりだった。
1522年、ようやくブーリン姉妹は帰国して、王妃キャサリンの侍女となった。
アンは相変わらず不美人であったが、多弁で会話がうまく、何より自信たっぷりの強気な態度が、英国男たちを圧倒した。
自分の欠点をうまく隠す技も身につけていた。
薬指の多指は、ドレスの袖を手の甲までかぶせることで、巧みに見えなくした。
ディズニーのアニメ白雪姫の中で、魔女の継母が着ていたあのドレスの形である。
尖った袖の先端が、中指のあたりに達していた。このドレスはけっこう流行ったので、アンの指は見事に隠されたのだった。
また、アンは体の何カ所かに大きなホクロがあった。
もっとも目立ったのは喉にあるホクロだった。これを隠すために、首に宝石つきのリボンを巻いた。
特にお気に入りなのが、自分の頭文字「B」をデザインした宝石をあしらったチョーカーだった。
やがてノーサンバーランド伯爵の息子、ヘンリー・パーシーと恋仲になって結婚を考えるようになった。
このまま何事もなければ、ヘンリー・パーシーを尻に敷いて、まずは平穏な一生を過ごしたかも知れないが、運命は、アンの乳母が予感したとおり動き始めていた。
ヘンリー8世は、このよくしゃべる女の軽快な話し声に惹かれた。
よく話し、よく笑い、合間にリュートを巧みに演奏して見せた。
ヘンリーはでかい図体を揺すりながら、何気なくアンの横に並んだ。
「おまえはリュートがうまいな。フランス仕込みか。」
アンは肩をすくめ、
「どこにいてもリュートは好きだったと思います。」
「ところで、おまえの姉のメアリー…ちっとも似ておらんな」
「姉ではなく、私が似ていないんでしょう。私は家族の誰にも似ていませんもの。」
何がおかしいのかヘンリーは大笑いして
「そうか!家族の誰にも似ていないのか!朕(わたし)と一緒だな!我々はウマが合いそうじゃないか」
ヘンリーはさっそくアンを口説いた。実はこの男、以前にアンの姉メアリー・ブーリンを口説いて愛人にしていた。
ヘンリー8世には厄介な癖があって、口説き落とすまではヒーロー気取りでお姫様を助けるようにお熱を上げるが、相手がなびいてベッドに入ったとたん、 「ただの女」に見えてしまうのだ。
そういった性質を姉から聞かされていたアンは、アホらしくて相手にしたくはなかった。何よりアンには愛するパーシーがい た。
もうすぐ2人は結婚するはずだった。ところがふられた腹いせか、ヘンリーはトーマス・ブーリンの直接の上司にあたるウールジー枢機卿に命じて、ノーサンバーランド伯に圧力をかけ、婚約をぶち壊してしまった。
その後パーシーは、以前縁談話のあったメアリー・タルボットという女性と無理矢理結婚させられた。
父親から、「アンと別れなければ廃嫡にする」と脅されたためだった。
パーシーは新妻とうまくいかず、胃の病気に苦しんだあげく、1536年の秋、短い一生を終えた。
アンはこのことを非常に恨み、ウールジーへの復讐を考えたほどだった。
夫がいるにもかかわらず、否、夫の出世のために、ヘンリーの誘惑に応じた姉のメアリーは、すでに飽きられていた。
今のヘンリーの眼中には、アンしかいなかった。
作品名:炎の女アン・ブーリン物語/ヘンリー8世と6人の妻 作家名:高野聖