茅山道士 白い犬3
「お前だってそうじゃないか。昨晩から見ている限り、あの白い犬に同情的だったぞ。」
子夏兄はそう言って笑った。麟もつられて微笑んだが、心の中で、それでもやっぱり違うと思っていた。子夏は相手に優しさを与えようとするが、麟は、その魂を鎮める最善の方策をとろうとする。例えば、あの女主人が暴れたら・・・・・子夏が茅山秘術を授かっていたとしても・・・・・子夏には倒す事は出来ないが麟には出来るのだ。
コホンと子夏は咳払いをして、「実は。」と、話し始めた。昨日、緑青にたしなめられた一件である。
「実は、毎晩お前に飲ませている薬だが・・・・・たまに、眠り薬を入れている時があった。すまん、もうしないから。」
あっと、麟は声をあげた。たまに、朝の目覚めが妙に悪い日があると、ずっと思っていたのだった。
「麟が毎日夜回りなんぞするって言うもんだから・・・・。」
ごにょごにょと言い訳がましい理由を、子夏のほうは呟いた。やめてくれとは言いづらいが、せめて毎日というのはよしてほしい。その辺りを察した若い道士が、
「では、3日に1度に減らしますから、眠り薬は止めて下さいよ。子夏兄。」 と、軽く笑いながら言うと、ぱっと子夏の顔が明るくなって、自分の身の幸せを感じながら、村までの道を進んだ。
何事もなく、数日が過ぎた。うまく事が進んでいるといいなぁ、と若い道士は青い空を見上げてぼんやりしていた。白い犬が突然やって来てはと思い、ずっとあれから、道観から出ずに待っている若い道士は、そんな事がないといいと、自分のただの杞憂だと思いたかったが、そう思うには何か心が重かった。
一応、隣村には道士がいるので、わざわざ様子を見に行くのもはばかられた。
「麟、 暇ならこっちを手伝ってくれ!」
奥から戚の呼ぶ声が聞こえ、若い道士は返事をして中へ入った。
麟がそんな事情で道観から離れられないのを、子夏は嬉しそうにしていた。とりあえず、無理な修行も夜回りも全部やめているので、疲れてどろどろに眠ってしまう麟を見なくてすむ。今日も庭で戚と薬草を粉にしているのを、ニコニコと本堂から見ていた。その横で、緑青が色々な札を作りながら呆れたように、「お前は母親かっっ。」と、つっこんだ。
「いいじゃないですか。麟が体調を整えて、もう少し体力をつけるのはいいことでしょ、緑青兄。」
逆に肯定したような答えが返ってきたので、緑青は札を作る手を休めてハンと言った。
「あれが、外へ出て行かないということは、この札が入り用になる可能性が高いということだ。そのほうが、俺は気が気でならん。」
5年も共に旅した緑青は、麟の態度でわかっていた。たぶん、女主人か白い犬かが、鬼に代わると踏んでいるのだ。そうでなければ、体力を温存している理由がつかない。
「でもちゃんと櫛は本物と取り替えて差し上げたし、埋葬の事も相手は了承してくれましたよ。」
「・・・・・了承してくれただけだ、実際はわからんのさ、人なんてそんなもんだ。麟が飛んでいかんでもいいように、孔先生がうまくことを運んでくれるといいんだが。はてさて・・・・・。」
そう言って緑青は、また札を作り始めた。どれもみな、志怪をよけるためのものである。黙々と作業をする姿をじっと見ていた子夏は、こういう手助けもあるんだなと、先日、自分が思い込んでいたことが間違いだったことを感じていた。確かに、志怪を倒したり鎮めたりするのは麟の仕事だが、この間の子夏がやったように人と交渉するのは子夏か緑青のほうがうまくいくし、札だって手慣れている緑青のほうが早く仕上げられる。
「誰にでも向き不向きがあるのだから、仕方あるまい。」
相手を見透かすように、緑青はぼそりと呟いた。
「はいはい、では私の得意なおいしいお茶でもいれましょうね、兄弟子。」
にこにこと笑いながら弟弟子は、奥へ入っていった。それが小憎らしい口調だったので、「バカ。」と、子夏に聞こえるように緑青は叫んだ。すると、後ろから、「ガンコ者。」と、言葉が戻ってきて、緑青は札を一枚しくじってしまった。
「戚、麟、お茶を入れたから一休みしなさい。」
庭にむかって声をかけて、玄関の石段の上に茶器を置いて、兄弟子は内へ入った。
「さて、一服しよう、麟。あっ、なつめまでついている。」
戚は喜々として干したなつめをほうばっている。ゆるゆると歩いて年下の道士がそこに辿り着く頃には、半分無くなっていた。
「あと半分は麟のだから。」
「そんなにいらないから、戚兄、もうちょっと食べてよ。」
「だめだめ、お前は食が細いんだから、全部食べろ。」
皿の上にはまだまだ沢山のなつめが残っている。う~んと唸りながら、そこから一掴み取っ手、戚の手のひらにのせた。
「あと半分。」
もう、と言いながらもポリポリとなつめをかじる戚の横に、麟も腰をおろして、残りのなつめを食べ始めた。
「何か悪い事でもあるのか? 麟。」
顔をあわすわけでもなく、そのままの姿勢で戚は尋ねた。道観にずっといるのは珍しいし、いつもヘトヘトになるまで武術の鍛練をする麟が、型だけを静かにやっているのを見れば、不思議に思うのは当たり前である。
「この間の事か。」と、更に戚が続けた。
「まあ、ちょっとまずいわな、・・・・でも、麟のせいじゃないからな。お前は頼まれた事はちゃんとしてやったんだから。」
うんうんと、傍らで麟は頷く。
「でもね・・・・・戚兄。どうも嫌な予感がして、ちゃんと孔先生に事情を説明してから、帰ってきたほうがよかったかなと思うんです。」
「子夏兄が手紙を書いてきたって言ってたから、大丈夫だろう。あの先生は、術も結構使うから、うまくおさめてくれているかもしれない。」
孔先生が飛び込んできたらもうおしまいだなと、戚はふと門を見たが、客が来た様子はなく沈黙していた。よしよしと戚は立ち上がり、側に立て掛けていた長い棒を2本持ってきて、一方を麟に渡した。
「腹ごなしに一回手合わせしてくれ。」
「それ、戚兄の得意なやつじゃないですか。あたったら痛いんだから。」
「ぶつくさ言ってないで相手しろよ、麟。そうしないとお前の分食ったから、俺が肥えてしまう。」
それに、あててないぞ俺は、と思いつつ、前庭の真ん中に戚は立って、攻撃の体制をとった。もうこうなっては相手をしないわけにもいかず、しぶしぶ、麟も前庭を歩き出した。
ほどなく、庭からは棒の打ち合わされる音が聞こえた。
「おや、少しは心配が減ったのかな。棒で稽古してますよ。」
奥でお茶を飲んでいた年長のふたりが、ホッと胸をなでおろした所へ、「痛-っ。 」と、大声が響いて、後から、「バカァーっっ。」という戚の叫び声がこだました。
その声で年長者たちは、一気に表に駆け出した。