茅山道士 白い犬2
隣村の道観の表に子夏が辿り着いた。もう真夜中をまわった時刻だ。門はぴったりと閉じていた。暫く考えていた子夏は、道観の門からそれて、その壁づたいにゆっくりと歩き、手頃そうな樹をみつけた。するすると登って壁の上に伸びた枝がある辺りで止まって道観をみた。
本堂が大きく開けはなたれて明りが洩れている。その本堂の前辺りに、大きな白い犬と女性が並んで本堂の横のほうに目を向けている。ちょうど子夏とは反対のほうなので子夏の姿は見られていない。あれは確かに自分たちの道観に伝言にきた白い犬である。それを認めた子夏は、「おいっ。」と、一声叫んで壁から飛び降りた。一匹と1人は驚いて子夏を見た。
「おうおう、抜け作道士がひとり来よったわ。」
「お前、先程の犬だな。うちの若い道士が、ここに泊まると言っていたが、それはどこだ。」
木剣を手にした子夏が、白い犬に詰問すると相手はフフンとせせら笑い、さっき見ていた道観の横手に向かって右手をあげた。
「あそこで経文を唱えている。」
犬の側にいる女性に軽く一礼して、
「夜分に失礼致します。この犬が私どもの道士を帰さぬと言うので様子をみにまいりました。私は隣村の道士で、賜 子夏と申します。」
と、挨拶をした。それを聞いて女性はくるりと向きをかえて、
「ちゃんとことづけを頼んだのに。・・・・おまえはどうしてそう言う事を聞かないのですか。さっきも、道士様を杖でたたいたし・・・。」
と、きびしく叱った。白い犬も負けてはいない。
「あんたが連れてきた道士が、どれ程のものか見極めただけのこと。あの道士以外は、この村の道士と似たようなもんだったんで、がっかりしていじわるをしてきただけさ。」
と、応酬する。
「それでもあの道士は凄いがね。危うく、わしが成仏しそうになったからな。」
白い犬は、麟のいる方を向いて、その中の道士に微笑んだ。女主人が生前かわいがっていたこの白い犬は、自分の主人が死んだ時に、女主人の旦那様に山に捨てられ餓死した。しかし、その魂は、女主人を慕ってこの道観までやって来たのである。だから、麟の強力な気と唱える経文の力を一番に受けてしまうのだ。
フンと、白い犬は言ってそっぽを向いた。あやまる気などさらさらない態度で、隣の女性の言葉を無視した。
無視されたほうは、賜子夏の前に歩み寄り頭をさげた。
「主人の犬が大変、失礼を致しました。あの道士様のお力をお借りしたくてひきとめましたのは、私くしでございます。どうか、あの道士様のお力を貸して下さいませ。」
「はあ、それは・・・・本人に逢ってからお話し致しましょう。では、うちの道士を呼んで下さいませんか? 」
何の気なしに子夏は、そう言って女性を見たが、女性は大変困った顔をした。隣りの犬は、「ほら、抜けた道士だ。」と、子夏に聞こえぬように女性につぶやいた。
「申し訳ありません。・・・・私くし共、この世のものではございませんので、あの道士様が唱える経文を聞くと力が抜けて、ここにはいられなくなるのです。・・・・もし、すぐにお逢いになりたければ、貴方様がご自分で行って下さいませ。」
少し青ざめた顔で女性は、そう言って麟のいるほうを指差した。「えっ、」と、驚いた様子の子夏は、そっぽを向いた犬を見て納得した。人語を話す犬と共にいるのだから、そちらの関係者に違いない。失念した自分を恥じるように、「失礼しました。」と、言い捨てるように歩き出した。
子夏が、そこへ赴くと、物凄い気を感じて、たじろいだ。あまり力のない子夏でさえ圧倒される程の力は、おそらく麟のものだろう。あらためて、その力の大きさを思い知らされる。それでも、扉を開け、中へ入ると、棺がたくさん安置された中に、ポツンと人影が浮かび、その人影は微かな月明りを受けてシルエットになっている。
一心に経文を唱えていた声が止み、人影がこちらを向いた。
「麟か?」
子夏が先に声を出した。部屋を取り囲んでいた気が、みるみるしぼみ、「子夏兄。」と、声が返ってきた。それは、まぎれもない麟の声だった。
「遅いから様子をみにきた。何もされてないか。」
心配そうに子夏は麟の腕をとった。お互いに顔は見えていないが、子夏は麟が微笑んだように感じた。
「やっぱり心配をかけてましたね。ごめんなさい、子夏兄。一度戻ろうと思ったんですが、こちらの方にひきとめられてしまって・・・・ことづけをして下さったと思いますけど。」
そこで、子夏は白い犬がやって来たことを伝えた。麟そっくりの姿で、ふてぶてしい態度と言葉を残していったことを子夏は、おかしそうに話した。その話しを聞いていた麟はふさっと髪の毛を動かす音をさせて、先程立っていた辺りをみているらしかった。
若い道士には、少し穏やかになった女主人の姿がうつっていた。
「私の兄弟子です。見思の力はあまりないので、あなたの姿は見えないのですが、薬草に関しては誰よりも詳しくて、私にとっては師匠なのです。」
子夏は麟の見ている方向をのぞいたが、誰の姿も見えない。それを知っている麟は、ひきとめられた理由と麟には見えている相手についても説明した。
「では、私もお手伝いしよう。麟のような力はないが、他の事で何か力になれるはずだ。」
「それは助かります。・・・・どうか、明日の朝まで待って下さい。朝一番であなたのお屋敷に行ってまいります。」
ペコリと頭を下げた麟は兄弟子に声をかけて扉に向かって歩き出した。パタンと扉が閉じられると、安置室は静寂と闇につつまれた。しかし、禍々しさが消えた訳ではない。じわじわと闇に溶け込むように、ただならぬ妖気が棺から染み出している。
本堂に戻った麟と子夏を、そこには女性と白い犬がそのまま待っていた。
「私くしどもの下僕が、大変失礼を致しましたそうで申し訳ございません。どうぞ朝まで、ごゆっくりなさって下さい。朝は私くしども失礼させて頂きますが、お願い致しました件、よろしくお願い致します。」
そう言うと、女性のほうは麟たちが先程までいた棟の方に姿を消した。犬はそのままごろりと寝そべった。
「あの、もしおなかがすいておいでなら、これを召し上がって下さい。」
麟は、先程女性が用意した食事を、犬の前に差し出した。犬はそれを見て、がつがつと皿のものを片付けていく。それを見ている麟に子夏は、「これを食べなさい。」と、揚げたパンと水筒に入れたお茶を取り出して渡し、自分もパンを食べ始めた。
「この犬のお陰で、夕食を食いっぱぐれてしまった。多分おまえもそうだろうと思って持ってきたのだ。」
こういう細やかな優しさが子夏のいいところだろうなと、麟もパンを食べ始めた。月は満月ではないが、十三夜あたりで、丸くぷっくりとして明りとしては上々のものだった。本堂の前の石段に腰掛けて、ふたりが食事をしていると、白い犬が食べ終えて側にやって来た。
「こちらも召し上がりますか?」と、パンをちぎって犬の前に差し出したが、白い犬は首を振った。
「奥で眠ったらどうかね。道士さん。」
「いえ、お留守のうちに勝手に踏み込むのは気がひけます。幸い、寒くもないのでここで眠ります。ねえ、子夏兄。」
本堂が大きく開けはなたれて明りが洩れている。その本堂の前辺りに、大きな白い犬と女性が並んで本堂の横のほうに目を向けている。ちょうど子夏とは反対のほうなので子夏の姿は見られていない。あれは確かに自分たちの道観に伝言にきた白い犬である。それを認めた子夏は、「おいっ。」と、一声叫んで壁から飛び降りた。一匹と1人は驚いて子夏を見た。
「おうおう、抜け作道士がひとり来よったわ。」
「お前、先程の犬だな。うちの若い道士が、ここに泊まると言っていたが、それはどこだ。」
木剣を手にした子夏が、白い犬に詰問すると相手はフフンとせせら笑い、さっき見ていた道観の横手に向かって右手をあげた。
「あそこで経文を唱えている。」
犬の側にいる女性に軽く一礼して、
「夜分に失礼致します。この犬が私どもの道士を帰さぬと言うので様子をみにまいりました。私は隣村の道士で、賜 子夏と申します。」
と、挨拶をした。それを聞いて女性はくるりと向きをかえて、
「ちゃんとことづけを頼んだのに。・・・・おまえはどうしてそう言う事を聞かないのですか。さっきも、道士様を杖でたたいたし・・・。」
と、きびしく叱った。白い犬も負けてはいない。
「あんたが連れてきた道士が、どれ程のものか見極めただけのこと。あの道士以外は、この村の道士と似たようなもんだったんで、がっかりしていじわるをしてきただけさ。」
と、応酬する。
「それでもあの道士は凄いがね。危うく、わしが成仏しそうになったからな。」
白い犬は、麟のいる方を向いて、その中の道士に微笑んだ。女主人が生前かわいがっていたこの白い犬は、自分の主人が死んだ時に、女主人の旦那様に山に捨てられ餓死した。しかし、その魂は、女主人を慕ってこの道観までやって来たのである。だから、麟の強力な気と唱える経文の力を一番に受けてしまうのだ。
フンと、白い犬は言ってそっぽを向いた。あやまる気などさらさらない態度で、隣の女性の言葉を無視した。
無視されたほうは、賜子夏の前に歩み寄り頭をさげた。
「主人の犬が大変、失礼を致しました。あの道士様のお力をお借りしたくてひきとめましたのは、私くしでございます。どうか、あの道士様のお力を貸して下さいませ。」
「はあ、それは・・・・本人に逢ってからお話し致しましょう。では、うちの道士を呼んで下さいませんか? 」
何の気なしに子夏は、そう言って女性を見たが、女性は大変困った顔をした。隣りの犬は、「ほら、抜けた道士だ。」と、子夏に聞こえぬように女性につぶやいた。
「申し訳ありません。・・・・私くし共、この世のものではございませんので、あの道士様が唱える経文を聞くと力が抜けて、ここにはいられなくなるのです。・・・・もし、すぐにお逢いになりたければ、貴方様がご自分で行って下さいませ。」
少し青ざめた顔で女性は、そう言って麟のいるほうを指差した。「えっ、」と、驚いた様子の子夏は、そっぽを向いた犬を見て納得した。人語を話す犬と共にいるのだから、そちらの関係者に違いない。失念した自分を恥じるように、「失礼しました。」と、言い捨てるように歩き出した。
子夏が、そこへ赴くと、物凄い気を感じて、たじろいだ。あまり力のない子夏でさえ圧倒される程の力は、おそらく麟のものだろう。あらためて、その力の大きさを思い知らされる。それでも、扉を開け、中へ入ると、棺がたくさん安置された中に、ポツンと人影が浮かび、その人影は微かな月明りを受けてシルエットになっている。
一心に経文を唱えていた声が止み、人影がこちらを向いた。
「麟か?」
子夏が先に声を出した。部屋を取り囲んでいた気が、みるみるしぼみ、「子夏兄。」と、声が返ってきた。それは、まぎれもない麟の声だった。
「遅いから様子をみにきた。何もされてないか。」
心配そうに子夏は麟の腕をとった。お互いに顔は見えていないが、子夏は麟が微笑んだように感じた。
「やっぱり心配をかけてましたね。ごめんなさい、子夏兄。一度戻ろうと思ったんですが、こちらの方にひきとめられてしまって・・・・ことづけをして下さったと思いますけど。」
そこで、子夏は白い犬がやって来たことを伝えた。麟そっくりの姿で、ふてぶてしい態度と言葉を残していったことを子夏は、おかしそうに話した。その話しを聞いていた麟はふさっと髪の毛を動かす音をさせて、先程立っていた辺りをみているらしかった。
若い道士には、少し穏やかになった女主人の姿がうつっていた。
「私の兄弟子です。見思の力はあまりないので、あなたの姿は見えないのですが、薬草に関しては誰よりも詳しくて、私にとっては師匠なのです。」
子夏は麟の見ている方向をのぞいたが、誰の姿も見えない。それを知っている麟は、ひきとめられた理由と麟には見えている相手についても説明した。
「では、私もお手伝いしよう。麟のような力はないが、他の事で何か力になれるはずだ。」
「それは助かります。・・・・どうか、明日の朝まで待って下さい。朝一番であなたのお屋敷に行ってまいります。」
ペコリと頭を下げた麟は兄弟子に声をかけて扉に向かって歩き出した。パタンと扉が閉じられると、安置室は静寂と闇につつまれた。しかし、禍々しさが消えた訳ではない。じわじわと闇に溶け込むように、ただならぬ妖気が棺から染み出している。
本堂に戻った麟と子夏を、そこには女性と白い犬がそのまま待っていた。
「私くしどもの下僕が、大変失礼を致しましたそうで申し訳ございません。どうぞ朝まで、ごゆっくりなさって下さい。朝は私くしども失礼させて頂きますが、お願い致しました件、よろしくお願い致します。」
そう言うと、女性のほうは麟たちが先程までいた棟の方に姿を消した。犬はそのままごろりと寝そべった。
「あの、もしおなかがすいておいでなら、これを召し上がって下さい。」
麟は、先程女性が用意した食事を、犬の前に差し出した。犬はそれを見て、がつがつと皿のものを片付けていく。それを見ている麟に子夏は、「これを食べなさい。」と、揚げたパンと水筒に入れたお茶を取り出して渡し、自分もパンを食べ始めた。
「この犬のお陰で、夕食を食いっぱぐれてしまった。多分おまえもそうだろうと思って持ってきたのだ。」
こういう細やかな優しさが子夏のいいところだろうなと、麟もパンを食べ始めた。月は満月ではないが、十三夜あたりで、丸くぷっくりとして明りとしては上々のものだった。本堂の前の石段に腰掛けて、ふたりが食事をしていると、白い犬が食べ終えて側にやって来た。
「こちらも召し上がりますか?」と、パンをちぎって犬の前に差し出したが、白い犬は首を振った。
「奥で眠ったらどうかね。道士さん。」
「いえ、お留守のうちに勝手に踏み込むのは気がひけます。幸い、寒くもないのでここで眠ります。ねえ、子夏兄。」