月下の麗人
「正当な恨みを持って死んだ魂は、神から自分を苦しめた者を一人だけ取り殺す復讐の権利を与えられるそうですよ」
レジスは震える手でゴブレットの中身をあおった。
「その魂は激しい恨みのために誰にでも見られるようになるとか。様々な色に変じる炎のような姿だそうです、それは。そしてその魂に取り憑かれた者はもう逃れようがない……」
低く抑えられていた枢機卿の声がもとの高さに戻った。
「聖職者らしからぬ考え方ですけれど、思うんです。いっそ、セリナさんがそうやって恨みを晴らしてくれればいいと」
レジスは息をのんだ。ロレンスの後、肩の横に小さな炎が浮いていた。それは刻々と色を変えている。鮮やかな赤、透明に近い青、そして淡い緑。
レジスは空になったゴブレットを取り落とした。耳障りな金属音を撒き散らして高足杯が転がった。
「どうかしましたかレジス卿?」
穏やかな、とても穏やかな笑みを浮かべ、ロレンスは一歩前に進んだ。
「ひ……!」
目の前に立つ青年がひどく禍々しい物に思えて、レジスは一歩後に下がった。鼓動が速くなる。不安定に色を変える炎は、消えるどころかさらに輝きを増したようだった。
レジスはさらに後ずさった。そして四阿の床石と地面との段差につまずき、大きく体勢を崩す。
「っ!」
上向きに倒れたレジスの頭は、茂みに包まれ完全に隠れた。やわらかく湿った物がかき回されるような音。茂みの暗闇から赤い血が流れ出て、月光に照らし出される。
そばに控えていたメイドが長い悲鳴をあげ、館の方へと助けを求めに言った。
一人残されたロレンスは小さく呟く。
「まさか、ここまでうまく行くとは思いませんでしたよ。少し驚かすだけでもいいと思っていたのですが」
バラの茂みをかきわけ、倒れたレジスを確認する。セリナが半分だけ埋めた短刀が、レジスの首を貫いていた。自分が手を下したのではない証明はあのメイドがしてくれるだろう。
バラの匂いで洗われた庭園に、血の香りが混じり始めた。ロレンスは右手に握られたままの杯を軽く掲げる。
「乾杯」
杯につけられた唇が、嫣然とした笑みの形になっていた。
ロレンスは庭園の中央に戻った。噴水の側ではロレンスの膝丈ほもない小さな焚き火が燃えている。その前にワルタがしゃがみこみ、炎に見入っている。手にはハディスからもらったのだろう。数種類の薬品が入った袋を何個か持っていた。ワルタがその一つを火に入れると、薬品が反応して炎の色を一瞬鮮やかなグリーンに変えた。
少し離れた場所に立っていたハディスがロレンスに気づいた。
「どうした、何か悲鳴があがったが」
「すぐにわかりますよ」
さして興味もなさそうにロレンスが言った。
「楽しいですか、ワルタ」
うなずいたワルタは笑顔だが、やはり少し辛そうだ。妹が殺されたのだから無理もない。
悲鳴のもとを確かめようと、館から貴族達が現れた。
「何があったのですか、ロレンス睨下」
人の死に際を見た者とは思えないほど冷静な声でロレンスが言った。
「レジス卿が亡くなりました」
リンクスは結局二日半主人から離れていたことになる。それが長くてしょうがなかったというようにハディスの姿を見るや胸に飛びついてきた。
「ハディス様、ちゃんと御飯食べてました? 風邪引きませんでした?」
「あのな。お前は俺をなんだと思ってるんだ?」
「いいじゃないですか。心配してくれているんですから」
ハディスはフウッと溜息をついた。
「しかし、自分の娘を殺すとはねえ。それで自分は事故死かよ」
「ま、自分の子供なんてどうでもいいって親結構いますからね、実際。孤児達の世話をしたことがあるからわかります」
「なるほどね」
まだ胸でころごろ言っているリンクスを肩に乗せ、ハディスは純粋な土の香りを思う存分吸い込んだ。
「ああ、鼻が変になるかと思ったぜ、あの館」
「本当、ひどかったですね。バラと香水の匂い」
あと、血の匂いですね。
口には出さず心で呟き、ロレンスはクスクスと笑った。