月下の麗人
ロレンスは、無数に灯されたロウソクの揺らめきと、めまぐるしく踊っているどぎつい色の服を着た男女の間を縫って、パーティー会場を横切っていった。足を進めるたび揺れる、月光を紡いだような銀の髪。紫色の瞳に、触れれば冷たく感じそうなほど白い肌。美しい青年だった。すれ違った女性達のほとんどが振り返って、パートナーに睨みつけられるほどに。
食べ物を運ぶメイドをかわして、ロレンスはようやく部屋の隅にいるハディスのもとに辿りつく。いつ終るのか分からないパーティーに、友人はいい加減うんざりしているようだった。壁によりかかり、腕を組んだまま動かない。形のいい唇は引き結ばれ、猛禽を思わせる、琥珀色の短い髪と同じ色の目は、今はやる気なさそうに半分閉じていた。
「壁の花ですか、ハディス」
客観的に見てもハディスは格好いいのだから女性とおしゃべりをすればいいのに、楽しんでいないのが少しもったいない。もっとも、いかにも『今とっても不機嫌です』というこの顔では声をかけてくる相手もいないだろう。
「つまらん」
不機嫌の原因を一言で言う。彼はこういう賑やかなのは肌に合わないらしい。
「それになんで俺がこんな窮屈な格好しないといけないんだよ。ボディーガードって、お前の手飼いがいるだろう」
「まさか。私は今聖堂にこもって祈っていることになっているんですよ。どうどうと出かけられるはずがないでしょう」
「ふーん」
ハディスは冷たい目で親友を睨む。
二十という異例の速さでハルズクロイツ教会第二位、枢機卿まで登り詰めたのがこのロレンスという男なのだ。
確かに自分は破壊魔法を使えるし、毒学薬学にも通じている。やれと言われれば警護なんて簡単なことだが、親友を引っ張り出さなければならないほどロレンスが部下不足だとは思えない。それに奴は公式な配下のほかにも、誰にも知られていない部下を持っている。秘密裏の仕事ならそいつらに頼めばいい。
「それに晩御飯おごってあげると言われて二つ返事でついてきたのはどこの誰ですか?」
「まさかそのままグリンノヴァの境界くんだりまで連れてこられるとは思わんかったわい」
ハディスの視線がますます低温になっていく。
さすがに小さい物とはいえ貴族のパーティーだ。各種の酒と食べ物がそろっている。なるほど、ロレンスの「晩飯をおごる」という話もあながち嘘ではなかったわけだ。
「そういえばお前、成金商人のところに何の用があるんだ? ハルズクロイツが金に困っているなんて聞いたことないが」
ハディスにもこのパーティーに参加しているほとんどが、政治に詳しいものなら緊張して卒倒しそうなほどの上流階級らしいということはわかった。おそらく何か話し合いでも行われるのだろうが、公式でないのがとても気になる。
「とっても個人的な用事です。先方に命を狙われても構わないのならくわしく教えてさしあげますけれど?」
「おい…… お前って聖職者だよな」
「ええ、そうですよ」
天使のような笑顔をロレンスは浮かべて見せた。
「まあ、くわしいことは聞くまい……」
「それではくれぐれも行儀よくしていてくださいよ」
「へーへー」
子供の頃にならったていねいな言葉遣いは、まだ覚えているだろうかとハディスはぼんやり考えた。
そのとき、部屋の奥で怒鳴り声が響いた。一瞬楽団が驚いて曲をとめる。
「なんだ、あいつらは」
ハディスが少し体を傾ける。人々の隙間から若い男二人が言い争っているのが見えた。争いは発展して、片方が片方の胸倉をつかみ今にも殴りあいになりそうだ。
「ああ、ディスト卿とレジス卿ですよ。二人は異母兄弟なんですけどね……」
大きな声では言えないとばかり、ロレンスは声を落とす。
「お二人の父上ラウエル卿は、正妻の間に長く子供ができなかったらしくて。他の女性との間にできたレジス卿を跡継ぎとして育てていたんです。けれど、しばらくして正妻の間にディスト卿がお生まれになったんです。ラウエル卿は、前に決めた通りレジス卿を跡継ぎにすると言っておられたのですが、彼が亡くなってから、ディスト卿が当主となる正当性を主張し始めて」
「ふーん」
ハディスはますますつまらなそうな顔になってしまった。
「私もいいかげん飽きてきました。少し夜風に当ってきましょう。あなたも来ますか?」
「いや、俺はとっとと部屋帰って寝る。かわいそうなのはリンクスだな。野宿か」
「あとでお菓子でも持っていってあげなさいね」
木の上でしょぼくれている黒い猫を、ロレンスは思い浮かべた。この館に滞在するのは明日までだ。今晩だけガマンすればハディスの使い魔はご褒美をもらえるだろう。
ロレンス達はこっそり部屋を抜け出すと、適当に挨拶を交わして別れていった。
館の端にある階段を昇り切り、廊下を進もうと向きを変えたとき、ハディスのみぞおちに何か硬いものがぶつかった。「痛て!」と声を挙げて下を見ると、腹に子供が顔をうずめていた。ハディスの目線の高さと曲がり角で気づかなかったが、この子はこっちにむかってダッシュしていたらしい。
「こんのくそガキ!」
服に似合わぬ言葉を吐いて、ハディスが子供の首根っこをつかむ。
「あ。ごめんなさい〜」
金持ちの子らしくやたらヒラヒラのついた服をきた男の子は泣きそうな声で言った。
「まったく……」
手を放し部屋に戻ろうとしたハディスの裾を男の子はしっかりと握った。
「ねえ」
振り返ったハディスに、少年は涙目をむけてくる。
「お父さんのいるところ知らない? 広い所。抜け出してきたらわからなくなって……」
「家のなかで迷子か。まったく、自分の住む館だろうが」
ぶつぶつと文句を言いながらも、ハディスは今昇ってきた階段を降り始めた。
ロレンスは空気をなるべく吸わないようにしていた。庭園にはバラの茂みがあちこちにある。日光が少ないせいか、バラの匂いは昼より薄いが、それでも夜特有の湿った空気に濃すぎるほど漂っていた。
「中では香水、外ではバラですか。普通の空気が恋しいです」
水で匂いが洗われていないかと噴水の傍まで行ったロレンスの耳に、かすかな歌声が聞こえた。幼い子供にしかだせない高めの声。特に散歩のあてがあるわけではなく、ロレンスの足は自然と歌の聞こえる方へむかった。
月と星に照らされた四阿(あずまや)に少女がいた。石で作られたイスに腰掛け、円テーブルに頬杖をついている。テーブルに触れるほど長い髪は赤。フレアリングの民の血が混ざっている証拠だ。ハルズクロイツ教会の創世記では、フレアリングの民は炎と血から創られたとされている。けれどその娘は伝説に似合わずおっとりとした顔をしていた。
歌声の主は、ロレンスの姿を見るとびっくりしたように目を円くする。そして、はーっと溜息をついた。
「キレイな人。どなた?」
「ロレンスといいます。歌がお上手ですね」
ロレンスが褒めると、少女は照れたらしく地面に着かない足をぱたぱたした。
「でも、あんまり夜に出歩いていたらいけませんよ。館に戻りましょう」
話し合いをするのにわざわざ子供を連れてくる者はいないから、この館の主レジス卿の娘だろう。心配させないうちに連れ帰った方がいい。
食べ物を運ぶメイドをかわして、ロレンスはようやく部屋の隅にいるハディスのもとに辿りつく。いつ終るのか分からないパーティーに、友人はいい加減うんざりしているようだった。壁によりかかり、腕を組んだまま動かない。形のいい唇は引き結ばれ、猛禽を思わせる、琥珀色の短い髪と同じ色の目は、今はやる気なさそうに半分閉じていた。
「壁の花ですか、ハディス」
客観的に見てもハディスは格好いいのだから女性とおしゃべりをすればいいのに、楽しんでいないのが少しもったいない。もっとも、いかにも『今とっても不機嫌です』というこの顔では声をかけてくる相手もいないだろう。
「つまらん」
不機嫌の原因を一言で言う。彼はこういう賑やかなのは肌に合わないらしい。
「それになんで俺がこんな窮屈な格好しないといけないんだよ。ボディーガードって、お前の手飼いがいるだろう」
「まさか。私は今聖堂にこもって祈っていることになっているんですよ。どうどうと出かけられるはずがないでしょう」
「ふーん」
ハディスは冷たい目で親友を睨む。
二十という異例の速さでハルズクロイツ教会第二位、枢機卿まで登り詰めたのがこのロレンスという男なのだ。
確かに自分は破壊魔法を使えるし、毒学薬学にも通じている。やれと言われれば警護なんて簡単なことだが、親友を引っ張り出さなければならないほどロレンスが部下不足だとは思えない。それに奴は公式な配下のほかにも、誰にも知られていない部下を持っている。秘密裏の仕事ならそいつらに頼めばいい。
「それに晩御飯おごってあげると言われて二つ返事でついてきたのはどこの誰ですか?」
「まさかそのままグリンノヴァの境界くんだりまで連れてこられるとは思わんかったわい」
ハディスの視線がますます低温になっていく。
さすがに小さい物とはいえ貴族のパーティーだ。各種の酒と食べ物がそろっている。なるほど、ロレンスの「晩飯をおごる」という話もあながち嘘ではなかったわけだ。
「そういえばお前、成金商人のところに何の用があるんだ? ハルズクロイツが金に困っているなんて聞いたことないが」
ハディスにもこのパーティーに参加しているほとんどが、政治に詳しいものなら緊張して卒倒しそうなほどの上流階級らしいということはわかった。おそらく何か話し合いでも行われるのだろうが、公式でないのがとても気になる。
「とっても個人的な用事です。先方に命を狙われても構わないのならくわしく教えてさしあげますけれど?」
「おい…… お前って聖職者だよな」
「ええ、そうですよ」
天使のような笑顔をロレンスは浮かべて見せた。
「まあ、くわしいことは聞くまい……」
「それではくれぐれも行儀よくしていてくださいよ」
「へーへー」
子供の頃にならったていねいな言葉遣いは、まだ覚えているだろうかとハディスはぼんやり考えた。
そのとき、部屋の奥で怒鳴り声が響いた。一瞬楽団が驚いて曲をとめる。
「なんだ、あいつらは」
ハディスが少し体を傾ける。人々の隙間から若い男二人が言い争っているのが見えた。争いは発展して、片方が片方の胸倉をつかみ今にも殴りあいになりそうだ。
「ああ、ディスト卿とレジス卿ですよ。二人は異母兄弟なんですけどね……」
大きな声では言えないとばかり、ロレンスは声を落とす。
「お二人の父上ラウエル卿は、正妻の間に長く子供ができなかったらしくて。他の女性との間にできたレジス卿を跡継ぎとして育てていたんです。けれど、しばらくして正妻の間にディスト卿がお生まれになったんです。ラウエル卿は、前に決めた通りレジス卿を跡継ぎにすると言っておられたのですが、彼が亡くなってから、ディスト卿が当主となる正当性を主張し始めて」
「ふーん」
ハディスはますますつまらなそうな顔になってしまった。
「私もいいかげん飽きてきました。少し夜風に当ってきましょう。あなたも来ますか?」
「いや、俺はとっとと部屋帰って寝る。かわいそうなのはリンクスだな。野宿か」
「あとでお菓子でも持っていってあげなさいね」
木の上でしょぼくれている黒い猫を、ロレンスは思い浮かべた。この館に滞在するのは明日までだ。今晩だけガマンすればハディスの使い魔はご褒美をもらえるだろう。
ロレンス達はこっそり部屋を抜け出すと、適当に挨拶を交わして別れていった。
館の端にある階段を昇り切り、廊下を進もうと向きを変えたとき、ハディスのみぞおちに何か硬いものがぶつかった。「痛て!」と声を挙げて下を見ると、腹に子供が顔をうずめていた。ハディスの目線の高さと曲がり角で気づかなかったが、この子はこっちにむかってダッシュしていたらしい。
「こんのくそガキ!」
服に似合わぬ言葉を吐いて、ハディスが子供の首根っこをつかむ。
「あ。ごめんなさい〜」
金持ちの子らしくやたらヒラヒラのついた服をきた男の子は泣きそうな声で言った。
「まったく……」
手を放し部屋に戻ろうとしたハディスの裾を男の子はしっかりと握った。
「ねえ」
振り返ったハディスに、少年は涙目をむけてくる。
「お父さんのいるところ知らない? 広い所。抜け出してきたらわからなくなって……」
「家のなかで迷子か。まったく、自分の住む館だろうが」
ぶつぶつと文句を言いながらも、ハディスは今昇ってきた階段を降り始めた。
ロレンスは空気をなるべく吸わないようにしていた。庭園にはバラの茂みがあちこちにある。日光が少ないせいか、バラの匂いは昼より薄いが、それでも夜特有の湿った空気に濃すぎるほど漂っていた。
「中では香水、外ではバラですか。普通の空気が恋しいです」
水で匂いが洗われていないかと噴水の傍まで行ったロレンスの耳に、かすかな歌声が聞こえた。幼い子供にしかだせない高めの声。特に散歩のあてがあるわけではなく、ロレンスの足は自然と歌の聞こえる方へむかった。
月と星に照らされた四阿(あずまや)に少女がいた。石で作られたイスに腰掛け、円テーブルに頬杖をついている。テーブルに触れるほど長い髪は赤。フレアリングの民の血が混ざっている証拠だ。ハルズクロイツ教会の創世記では、フレアリングの民は炎と血から創られたとされている。けれどその娘は伝説に似合わずおっとりとした顔をしていた。
歌声の主は、ロレンスの姿を見るとびっくりしたように目を円くする。そして、はーっと溜息をついた。
「キレイな人。どなた?」
「ロレンスといいます。歌がお上手ですね」
ロレンスが褒めると、少女は照れたらしく地面に着かない足をぱたぱたした。
「でも、あんまり夜に出歩いていたらいけませんよ。館に戻りましょう」
話し合いをするのにわざわざ子供を連れてくる者はいないから、この館の主レジス卿の娘だろう。心配させないうちに連れ帰った方がいい。