無口と饒舌と糸電話
靴を履き替え、弥生が出てくるのを待つ。弥生は一人ではないかも知れないけれど、構わなかった。人の波が消え、まばらになる。そのまばらな人の出入りすら無くなって、誰もその場にいなくなった頃に、弥生が来た。一人だった。雨は振っていないのに酷く蒸す。私の前を素通りしようとする弥生に声を掛ける。
「弥生」
私から声を掛けるのはいつ以来だろう。弥生は立ち止まったけれど、振り向きはしない。
「奈々、ストーカーみたいだよ」
そう言われ、確かにそうだと苦笑し相槌を打つ。その隣に立つと、弥生は歩き始める。私もそれに合わせて歩き、早速話を切り出す。
「それ、ここで話すの?」
言葉を遮られて我に返る。確かに周りには部活動に勤しむ生徒が其処彼処にいた。どこか話の出来るようなところにでも寄ろうかと尋ねようとした。
「いいよ。歩きながらで。学校出ればそんなに人いないでしょ」
再度遮られてそう言われる。言いたいことは伝わっていたから、相槌を打ってそのまま黙って歩いた。何をどう言葉にするかを考えながら、黙って歩いた。
「この前、弥生といても私は楽しそうじゃないって言ってたけど、そんなこと、ないから」
人気の無くなったところでいきなり切り出してみた。
「へえ。でも佐々木さんとはあんなに楽しそうに話してるじゃない。私といるときは返事くらいしかしないのに」
「佐々木さんとは、話を途切れさせたら気まずいからそうしてるだけで」
「私だって話してくれないと気まずいよ」
沈黙。
「ほら。またそうやって黙る。それじゃ奈々が何を考えてるのか、私にはわからないよ」
苛立ちと呆れのこもった口調。
喉が。喉が渇く。
上手く言い表せる言葉が見つからない。
けれど、どうせ誤解されるにしても、今より悪くなることも無いのだ。思いつくままの言葉を口にしてみる。
弥生と一緒にいるときの心地良さ、弥生に対する感情、今まで話したことの無い自分の考えをゆっくりゆっくり、言葉にした。途切れがちで、わかりづらく、しどろもどろな私の言葉を弥生は黙って聞いているようだった。声帯を震わせ、唇と舌に乗せられ、音に変わったその言葉は想像していたよりも更に、とても虚ろで、酷く胡散臭く、驚くほど陳腐に聞こえた。自分の語彙の無さに反吐が出る。
無言が続く。弥生に今にも鼻で笑われそうで、震える手を何度も何度も握っては開いた。隣にいる弥生の表情なんて見る余裕は無かった。水分の多すぎる空気はいくら呼吸を繰り返しても息苦しさを無くしてくれず、そのくせ渇いた喉に潤いは与えてくれない。
不意に何かが手に触れる。それが弥生の手なのだと気付いたのは、思わずびくついた後だった。一瞬離れたその手を握りなおされる。弥生の顔を横目で覗いたけれど、長い髪に遮られてよく見えなかった。けれど、その手を恐る恐る握ってみれば、しっかりと握り返された。触れた手がべたつくのは私の汗なのか、弥生の汗なのか、それとも間にある空気の中にある水分が纏わりついているからなのか、よくわからなかった。そして弥生が呟く。
「話してくれてありがとう。奈々が何も言わないのを良いことに、なし崩しに関係を続けて。奈々が拒むまでこのままでいようなんて考えて。自分の気持ちを伝えるのも、奈々の気持ちを訊くのも避けて、はっきりさせないで来たのは私の方だったのに、責めるような事言ってごめん」
ああ、そうだったのか。
弥生の少しずるい部分を見つけて、それが一層いとおしかった。
「うん」
「また、返事だけになってる。ちゃんと話してくれないと困りますよ」
その声はいつもの明るさを取り戻していた。握る手を緩め、指と指を絡める。震えそうになる声を何とか普段どおりに出して、会話をする。そう、出来るだけ中身の無い話が良い。
「うん。すんません」
「あー、最近の私は乙女だったな。貴重な体験だった」
「いつもは違うんだ」
「ええと。乙女というより中二男子?」
「ああ、なんか納得」
「納得するな。ねえ、さっきのもう一回言ってみて」
「それはちょっと勘弁してもらえないですかね」
「なんで」
「こっぱずかしいもんで」
「じゃあ、金輪際もう二度と言ってくれないの? うわぁ、ショックだ。録音でもしておけば良かった。てか、反省してないんじゃないの?」
「う。少し検討いたします」
私の言葉に、弥生はこちらを向いて笑った。それを見て私も笑った。
──もしもし、聞こえますか。
──もしもし、聞こえるよ。
耳に当てるばかりだった紙コップを、久しぶりに口に当てて声を伝えてみると、糸を伝って弥生の声が返ってきた。それは、ただ聞いていただけの時よりもずっと楽しげで、こそばゆくて、たまらなく、好きだった。