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無口と饒舌と糸電話

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 どこからか自分の名前を呼ばれたような気がした。前日の雨のせいだろうか、校舎の中も外も酷く蒸していた。纏わり付く空気と湿気をかき分け、放課後の雑多な人込みに溢れる校内を抜けようとしたところだった。足を止め、その音が聞こえた方向を探る。

「奈々」

 今度は明らかに後方から名前を呼ばれた。振り返り、こちらに向かってくる人物と思い描いた人物が符号したことに小さな満足を覚えた。彼女が隣に来るのを待つ間、鞄を持つ手を入れ替える。空いた左手側に彼女が来たところでまた歩を進める。

「今日、雨降ってないのになんでこんなにじめじめしてるんだろうねえ」

 話し始める弥生に私はよくわからない相槌を打つ。それを聞いているのかいないのか、弥生は構わず話し続ける。延々と、次々と話題を変えながら話し続ける。私はその間にああとか、うんとか、よくわからない相槌を打つだけだ。よくこんな調子の相手に話し続けられるものだと毎度感心する。興味が無いわけでは無いのだ。ただ、その話題に対する相応の言葉がなかなか浮かばない。浮かんだところで既にそのタイミングを逸している。だから相槌を打つだけになってしまうのだ。他の人であれば、それでもなんとか話を盛り上げるようなことを言わなければと気を使うのだけれど、この弥生に関しては長い付き合いの中でそんな気遣いは不要のものだと認識している。だから相槌だけで済ましている。たまに話が途切れたとしても、弥生はそれを気にする様子も無い。話すことを求められないのはとても楽で居心地がいい。

 玄関の鍵を開け、中に入るとまた鍵を閉める。ただいまとぼそぼそと呟くと後ろからお帰りと間延びした声で返ってくるのも毎度のこと。それに薄く笑って自室に向かう。弥生が来ない日は沈黙が返ってくるだけなのだけれど、意外とその辺りのことを気にしていたりもするのだろうか。よくわからない。

 一旦自室に鞄を置いてから、冷蔵庫に冷えたお茶を取りに行き戻ると、弥生はベッドにもたれるように座り、何か本を読み始めていた。膝を立てているせいで短いスカートでは隠しきれない太腿が露わになっていることに苦笑する。何を読んでいるのかと表紙を覗き込むと、以前弥生が来たときに読んでいた漫画の続きだった。テーブルにグラスを置き、お茶を注ぐ。それを一息に飲み干すと、部屋の窓が閉めたままだったことに気が付いた。道理で、暑い。

「閉めたままでいいよ」

 立ち上がり、窓の鍵に手を掛けたところでそう言われた。疑問の視線を送ると、弥生は読んでいた漫画を閉じ、こちらを向くと口元に笑みを浮かべる。

「だって、声が外に漏れるじゃない」

 赤い唇の中に赤い舌が蠢く。そこから漏れ出た音が言葉として頭に染み込み始めたところで、またその赤いものは動き始める。

「それとも今日はしない?」

 淫靡に歪む唇に喉が鳴る。脳裏に先程の白い太腿がちらつく。
 ああ、なんだ。
 私はもう欲情していたのか。
 
 弥生の問いにカーテンを引くことで回答する。光源を失っても尚、赤い唇と白い腿は鮮明に光を放つ。その光に吸い寄せられるようにベッドに近づく。弥生がもたれていたベッドに腰掛けるのを見て、私もその横に腰掛けた。安いベッドはぎしりと軋んだ。

 弥生の手がゆっくりと頬に添えられ、顔が、唇が、赤い唇が近づいてくる。それを迎えるように私も少し身を乗り出すと、弥生は顎を引く。触れそうで触れないその距離を保つ弥生の赤い唇は可笑しそうに笑っている。指が私の耳朶を弄ぶ。自分の息が馬鹿みたいに荒くなっていく。きっと弥生はそれに気が付いている。だって、弥生のゆっくりとした呼吸ですら私に届いているのだから。それを思うとやたら恥ずかしくなった。それならばいっそ、唇を重ねてしまった方がまだ誤魔化せる気がするのに、私が唇を近づけるたびに弥生はそれを可笑しそうに避ける。触れそうになっては遠ざかる。あまりに何度も避けられて、少し不貞腐れて顔を離した。そうすると、弥生は本当に可笑しそうにふふと声に出して笑いながら唇を重ねてきた。私が避けないように頭を軽く押さえて。ようやくたどり着いた唇だったけれど、その手段を思いつかなかったことが少し悔しかった。けれど、そんなものは私の唇の内側で赤い舌が蠢き始めたら、本当にどうでもよくなった。弥生を感じることしか頭に無くなっていた。

作品名:無口と饒舌と糸電話 作家名:新参者