かつてあなたが見上げた夜空にも 星が輝いていたならばよかった
「……俺はさ、高原。『異端』であることが怖いんだよ」
水瀬はそう、最後はとても哀しそうに、高原へ告げた。
「『普通』でいたいんだ。世間とか、常識とか、おまえはそんなのめんどくさいって思ってるのかもしれないけど。ダメなんだよ、俺。そういうの捨てて生きらんないんだ」
怖いんだ。
水瀬は言って、そっと目を伏せたまま、高原へ向き直った。
「知ってる?昔の、ヨーロッパであった『魔女狩り』ってあるだろ?あの『魔女』って、もともとはつまり『無神論者』のことなんだって」
水瀬の独白を黙ってききながら、高原は静かに立ち上がった。窓へ寄りかかっている水瀬へ一歩ずつ歩みよる。水瀬は逃げない。視線は合わせずに、けれど伸ばされた高原の腕を水瀬は許容した。
「無神論者は異端で、神様の怒りをかうから、殺されるんだって。拷問受けて、はりつけにされて、火であぶられて。……そんな神様って、アリ?」
水瀬の指から煙草を掠めとり、ぎゅっと灰皿へ押しつけた。宙に浮いたままの白い手をやわらかく握る。肩へと額を伏せ、水瀬の声に耳を澄ませる。
「子供の頃は、なにかあるたびに神様に祈ってた。キリストも仏もいろいろごちゃまぜになってたけど、『神様』っていう救い主はきっといるんだと思ってた」
乏しい想像力で、高原は幼い水瀬を思い描いた。目を閉じて小さな両手を組み、何かに祈る姿はひどく胸を打つ。
「……だけど、誰も助けちゃくれないんだっていうあたり前のことを、ただ思い知っただけだった」
誰も救ってなどくれない。自分の力で立ち上がり、自分自身を精一杯守るしかない。
「おまえは、神様って信じる?」
「信じない」
きっぱりと言い切って、高原は顔を上げた。
水瀬のひとみをのぞきこむ。
あれほどに求めた水瀬の心を、今ならばきっと見ることができる気がした。
「……みなせ」
名前を呼ぶと、水瀬の表情がふわりと泣きそうに歪んだ。
世間にみせる『水瀬彬良』の仮面が崩れて、内側の素顔を垣間見た瞬間だった。
引き寄せられるように唇を近づける。一度だけ優しく啄ばんだ次には、水瀬の手が高原の肩を引き離した。強引に求めれば両手で拒絶される。水瀬がゆるくかぶりをふった。うつむいて、もう高原と視線を合わせてはくれない。
「……ごめん」
細く告げられた言葉が、高原の胸を深く抉る。強く唇を噛んだ。そこから伝わる痛みの分、どうしようもない苦しみが水瀬の手のひらから流れ込んでくるようで。
そっと水瀬から身を引く。同時に水瀬は支えを失ったかのようにその場でずるずるとしゃがみこんだ。間に何もなくなった空間の先、すっかり夜を迎えた世界の色がガラスに鏡の機能を与え、高原を映す。
衝動的に腕を振り上げて、自分の像共々窓を粉々にしかける寸前で思いとどまった。逃しがたい胸の痛みをこらえるように、ありったけの力で拳をにぎる。そして水瀬を見下ろした。
『異端』を恐れる水瀬が、自分を拒絶するのは当然なのかもしれない。けれどそれこそやりきれない話だった。それではもう、自分にできることなど何ひとつないではないか。
高原はこみ上げる感情を懸命に押し殺し、デスクに放られていた水瀬の煙草に手を伸ばした。許可なく一本を抜き出しすばやく火を点ける。深く吸い込んで吐き出し、窓の向こうに広がる暗闇をながめた。
濃紺の空には、ぽつぽつとかがやく小さな星が見える。遥か彼方から届いている光の粒をひとつひとつ数えて、高原は紫煙を吐き出した。
幼い頃から煙草が嫌いだった。まとわりつくのはいつだって嫌な記憶ばかりだ。誰も吸う人間がいなかったはずの高原の家に、必ず常備されていたスチールの灰皿。喉に染みるようなこの味を覚えたのは、高原も中学の頃だった。今だって少しも好きになれないこの味を、水瀬もこんなやりきれない思いで求めてしまうのかもしれない。
「……いければいいのに」
無意識のまま、言葉に出していた。
ゆっくりと顔を上げた水瀬へ視線は戻さず、高原は星を数える。
「本当に、あればいいのに。この空のむこうに、別の世界が」
連れていけたらいいのに。他の誰でもなく自分が。水瀬の望む世界へ、ふたり一緒に。
「そして、旅にでるんだ。楽しいこともつらいことも、怖いことだって一緒に乗り越えてさ。神様が助けてくれなくたって、俺が水瀬を助けるよ。……きっと、そこは希望にあふれてる」
ふっと風に溶かした紫煙が、高原の目にツンと染みた。……行きたいな。そう呟いた声に、水瀬はもう一度顔を伏せ、けれど最後まで、答えてはくれなかった。
〔了〕
作品名:かつてあなたが見上げた夜空にも 星が輝いていたならばよかった 作家名:ましろ